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真に把われなき心で叱れる大人たれ(前半)

(前略)商売上、便宜上、商談するために(などの場面で)タバコをのまなくちゃなんだか具合が悪い場合があったら、タバコをのんでもいいでしょう。お互いに一献酌み交わさなければ商売が成り立たなければ、一献酌み交わしてもいいでしょう。

しかし、酒に呑まれちゃいけません。自分の仕事さえ忘れて呑んでいるような坊主があったとすれば、それは生臭坊主に違いない。それを、“把われない”という言葉でごまかして、把われているだけです。

そうかと思うと、「空だ、空だ」と言うんだね。「オレは空になった、空になった」と思うんですね。空っぽになったと思って、実は空っぽになっていないで「おまえの心はなんじゃ、おまえのやり方はなんじゃ」と人ばかり責めてるのがある。自分では空っぽになったつもりでいるのです。

ところが空っぽになった人というのは、人など責めません。第一、責める心がないのです。神様の中には責める心なんか一つもありません。愛するばっかり、みんなが本心を現すように、という祈りがあるだけです。責めるのは消えてゆく姿なんですから。本当の姿ではないんだから。

人を責めた場合には、自分もその人と同じ中に入って、一段下がっちゃうんです。どんなに自分が正しい立場に立っていても、自分が正義であっても、相手が間違っていても、人を責めるという想いが出た場合には、その想いが出ただけが消えてゆく姿なのですよ。

「オレは正しいから、怒るのは当り前だ」というのはそれは嘘。怒りで自分が損するんだから。自分のいのちを傷つけるんだからね。

だから、(自分が)いかなる正しい立場にあろうとも、向こうが不利な立場にあろうとも、怒ってはいけません。

そりゃあ、大きな声で怒鳴りつける必要もあります。叱言こごとを言うことも必要かもしれない。しかしあくまでも、ちゃんとわきまえてやらなければいけない。(つづく)

五井昌久著『講話集〈2〉みんな救われている (講話集 2)』より