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説く人の人格がすべて

くりかえして云います。妬みがあったら妬み心を消してから入るんじゃない。哀しみの心があったら哀しみの心を消してから入るんじゃない。恐怖があったら恐怖の心を消してから入るんでは入れやしない。

恐怖があったらあったまま、妬み心があったらあったまま、自己否定の心があったらあったまま、その業想念を持ったままで、神さまの中へ入ってゆく。”迷い心迷えるままにまずなさめ世界平和の神の祈(の)りごと”だから迷ったままでいいから、「神さま!」と入ってゆくんですよ。(中略)そうならなきゃだめですね。これが私の教えているところなんです。

それを間違えて、「あなたの信仰が足りないからいけないのだ。あなたが信じなきゃいけない」とやるんです。「あなたが信じないからその病気は治らないんです」「あなたが五井先生!と思わないから治らないんですよ」とやるんですね。それは間違いなんです。

やりたいところでしょ。ちょっと間違えて、「あなたが信じさえすればいいんですよ」「あなたが五井先生!といえば助かるんです云わないからいけないんです。」と云うんですが、それはだめです。泣かせて見せようホトトギス、じゃないけど、「五井先生!」と云わないような想いの人に、自然に「五井先生!」と云わせるようにしなければだめです。

それにはどうしたらいいかというと、その人の人格です。云う人の人格がうつってきて「あの人の態度を見たり、あの人の純心な信仰を見たら、私もそこへ行ってみたい」とか、「あの人はやさしい、やわらかい、なんていい人だろう。あの人の行っている先生なら行きましょう」とかいうようになる。

そうじゃなくて、「先生は本当にいいのかしら悪いのかしら。治るのかしら治らないのかしら」と云っているのを、「それはあなたが信じないからよ」と引っ張ってきちゃだめなんです。それは強制だから。それは私の教えとは違うんです。「五井先生を信じさえすればいいの」なんて、引っ張ってこられますよ。だけど、反感を持っちゃいます。自由を縛られるから。

信じるようにさせなければ。信じるようにさせるにはどうしたらいいかというと、五井先生と人の間に立って、愛に満ちた態度で、「ああそう、つらいわね。大変ね、そんなにつらいの?」と聞いてやるんです。誰でも打ち明けたいんだから。愚痴を聞いてもらいたくてしょうがない人はたくさんいるんだからね。ああ、この人はいい人だと思うでしょ。聞いてあげると、この人が好きになっちゃう。それで、「では私と一緒に五井先生のところへ行きましょう」と云うと行くんですよ。(中略)

まず自分が見本にならなくて、いくら言葉だけで、「愛ですよ。すべては愛なんです。神は愛なんです。信じなさい。」なんて云ったって、愛じゃなくて、向こうは愛想尽かしちゃいますよ。(笑)

愛が強制であるべきはずがない。愛が人の心を縛るわけがない。強制です。いかなるいい教えでも、人の自由を縛っちゃいけない。縛ったものはだめ、縛った時はだめになる。

これは相当できた人でもついやるんですよ。一生懸命になるからね。「先生のところへ行きや助かるのに、先生を想えば助かるのに」と思うでしょ。実際みんな助かっているんだから、助かるに違いない。

そりゃそうでしょ。業想念が光の中に入って消えちゃうんですから。それを頭ごなしにやらないで、自分の人格を中継ぎにしてやるように、みんなやれば、この世の中は世界平和になりますよ。それを私は望むんです。

くどいようですけど、もういっぺん云います。ここは大事なところだから……。

「あなたの信仰が薄いから、あなたの病気が治らない。五井先生の想い方が足りないから、あなたの病気が治らない。」というのはだめなんです。いいですね。私はそれが大嫌いなんです。それをやったら私の教えが全部こわれちゃうんです。

信じられない時には、信じられない時間があるんです。業想念がグルグルグルグル回っているんだからね。その回っている業想念の中にいるんだから、押し上げてくる力にはかなわないんです。行こうとすると押され、行こうとすると押されて、なかなか行けないんです。行けないのにやると、責めることだからこれは業想念です。だからせっかく出てきたのが引っ込んじゃうんです。そのまま出させとけばいいんです。

「五井先生はだめなんだ」と云ったら、だめだっていいよ。そのまま聞いていたっていいんですよ。そんなの消えてゆく姿と思えばいいんです。そうすると早く消えちゃいます。

それより、「あの人の業想念が一日も早く消えて、五井先生につながりますように」「天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように」と祈っていればいいんです。そうすると、業を追い出しているようなもんです。

言葉でもって、業が出ようとするところを「信仰が足りないからだ、五井先生を思わないからだ」とやると、奥へ押し込んでしまうことになる。素直に出てゆこうとするのを押さえるから、つまっちゃうんです。そうすると胃腸をこわしたり、腸カタルになると同じように、それは一番下手なやり方なんです。一番よさそうで下手なやり方なんです。

出るものは出させるんですよ。出しながら、「早く出て消えますように、本当に天命が完うされますように」と追い出してやるんです。そうすると、どんどんどんどん回って出てゆくんです。出てしまうと、初めて「先生!」と思えたり、世界平和が深く思えたりするんです。そういうもんなんですよ。それを私がいつも云うんですよ。

自分の人格というものを中間に入れて、五井先生というのと自分の人格を一つにして、それで引っ張ってゆく。そういうようにしなきゃだめです。

世界平和の祈りの中へ自分が入っていって、自分の人格を土台にして、エレベーターにして、エスカレターにして引っ張ってゆく。そういうようにしなきゃだめです。

それは妻の場合でも、夫の場合でも、あるいは近所の人の場合でも、同信者の場合でも同じことです。強制するものがあったら、どんな宗教でもそれはだめだ、と思っていいです。人をいじめ、人の心を傷つけるんだから。人の心を痛めちゃいけません。それを私はいつもいつも云うんです。

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より