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世の中を公平にするために

世の中には、人のためにもよく尽くし、人柄もとてもよい人なのに、一家に病人が多かったり、不幸なことが時々出てくる人があります。その反対に自分勝手で、ガメツイ人なのにお金持で、家庭にもあまり不幸災難がなく、暮らしている人もあります。

「どうしてよいことをしている人が不幸であったり、病気であったりして、悪いことを平気でできるような人が、陽気で派手に暮らしていられたりするのでしょうか」と質問してくる人がよくあります。本当に神様がいらっしゃるのに、この世は不公平にみえるような、そういう状態があるものです。

神様は人々に公平に愛をふりまいていらっしゃるのですから、よいことをする人は、神様のその愛の上に又自分のした愛行が重なって、当然一家が幸せな生活を営めるはずです。しかし実際の社会は、その反対現象の方が多くみえています。どうも不思議なことです。

人間生活をこの世だけのものとしてみれば、こんな不思議なことはありません。何故ならば、神様にとって、すべてが自分の子供であるべき人間に、そんな不公平な生活を与えているからです。それだけならば唯物論者ができるのも無理からぬことです。

そこで仏教でいう過去世の因縁ということが生きてくるのです。もし人間世界に、過去世というものがなく、生まれかわりというものがなかったら、この世ほど不公平な所はなく、神の愛などとても信じられません。すべては人間の考えるままに、この社会を公平にしてゆくより仕方ありません。

そこで、社会主義や共産主義生まれたわけです。ところが、社会主義や共産主義にしても、その人々の能力や体力の差によっては、その収入や地位が違ってきます。すると根本は、各自の能力や体力がまず問題になってきます。そういたしますと、人は常にその能力や才能によって、その地位や立場を争わなければなりません。

それでは何時まで経っても、人間の心に真に平和な心は育ちません。それは個人と個人との対立であり、国家と国家、民族と民族との対立ともなって、やがては地球人類はお互いに亡ぼし合ってしまいます。

しかし、神様は厳然と存在し、人類を愛しつづけていらっしゃるので、やがては地球人類に真の平和をお与えくださるに違いありません。しかし、そのためには、人間一人一人が過去世からの神のみ心を離れていた業因縁を消滅させなければなりません。各人が過去世の因縁を消滅させた時、はじめて公平なる社会が現われるのです。そのための消えてゆく姿で世界平和の祈りの誕生でもあるのです。

五井昌久著『行雲流水』より