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まず世界平和の祈りを

五月は緑の月というが、全く初夏の緑林の色は、なんともいえぬ快さを、人間に感じさせる。花を観て心が和み、緑林を渡る風の音に自ずと自然に同化してゆく人間というものは、やはり本来が大自然の一部であり、宇宙大生命のひびきの中で生かされている分生命であることに違いない。

青葉若葉の照り輝く中で、ぼんやりと青空の中に心を融けこませている一時刻を、快いと思わぬ人はいないだろう。だがこういう一時刻でさえももち得ないで、食に追われ、戦火に追われつづけている人々が、インドにもパキスタンにもインドシナにも中近東にもたくさんいるのである。

衣食足りて礼節を知る、という、衣食とも足りず、礼節はおろか、この世に生きつづけることが精一杯の人々が、この地球世界にはたくさんいるということを、新聞やテレビや、実際に見聞してきた人たちから知らされると、聞いているこちらの心まで暗くなってくるのである。

「日本人の自分たちがどうにも手の出しようがない、東南アジアや中近東やインド、パキスタンの悲惨な状態に、私たち日本人はどう対処したらよいのか」と私に訴えてくる人もある。宗教的にいえば、この世に生まれてくるのは、過去世の悪因縁を消滅させながら、しかも神のみ心の愛と調和を、この世に築き上げてゆくのであるから、過去世において悪因縁を積んでいれば、その積んであった悪因縁だけ、この世で払ってゆかねばならぬ、ということになる。

しかし、そう想うだけでこちらの心が満足するわけがない。といって、現象的に救いの手を差し伸べることが出来ない。できたとしても僅かの救済金や、救援物資を送ったりするだけで、ほんのその場限りの援助である。私たちは宗教者として、物質的な援助とともに、その人たちの業因縁消滅のための祈りをすることが大事である。

すべての人々の苦しみ悩みが一日も早く消滅されますように、という愛の祈りが、やがては、世界人類が平和でありますように、という大きな広い立場の祈り言になって、今日の世界平和の祈りが生まれ出たのである。

私たちは現われてきた現象の不幸や災難にあまり把われず、現われてきた物事は、すべて消えてゆく姿として、ひたむきに、たゆみなく、世界平和の祈りをしてゆくことが必要なのである。

人の不幸災難の波も、自己の不幸災難の波もともに消滅させてゆくのが、世界平和の祈りである。あらゆる状態を、消えてゆく姿として、大光明波動である、神の救済のみ心の中に融けこませてゆくのが、世界平和の祈りである。

このことを堅く信じ、前記の人々からみれば、はるかに幸せである自分たちの生活に感謝しつつ、私たちは日々瞬々、世界平和の祈りの生活をつづけてまいろうではありませんか。

五井昌久著『行雲流水』より