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霊なる人間として生きる

在るもの、本当のものは何かといったら、神さまそのものがある。神の大生命の分け命がここに(胸をさす)あるので、分け命を称して人間というのです。肉体を称して人間というのではないのです。分け命の、霊なる命が人間であって、この肉体というのは、現われている一つの現象に過ぎない。器であり、場なのです。

肉体は百年もたてばなくなって粉になってしまうでしょう。命は無限に生きているのです。亡くなったら幽霊のようになってしまうとか、人魂みたいにフワフワして、意識がないと思うと違うのです。チャンと個性を持って、知恵も知識もあるものが永遠に生きているのです。永遠に生きているものが自分の本体なのだから、何も30年や40年、80年だけの命に執着する必要はない。粗末にしろ、というのではありません。執着する必要がない、というのです。

そこで私はみんな消えてゆく姿、というわけです。ここに病気のように現われている姿も、不幸のように現われている姿も、貧乏のように現われている姿も、自分が過去につかんでいた想いが現われてきているのだから、病気に現われてきたら、「ああ、消えてゆく姿だ」と思いなさい。不幸に現われてきたら、「消えてゆく姿だ」と思いなさい。現われてきたら、みんな消えてゆく姿だと思いなさい。こればかり、私は言うわけです。

それで、その”消えてゆく姿”と思った想いを、神さまの中に入れるのです。ただ神さまといってもわからないでしょう。見えないのだから……。けれど、神さまのみ心はわかります。神さまは、「みんな調和して、仲良くやれ」というわけですから、その波長に合わせて、世界人類が平和でありますようにという祈り言葉をもって、神さまのみ心に入ってしまいなさい、と言うわけです。

そうしますと、神のみ心、救世の大光明によって、みな浄められて、日々瞬々刻々、祈るたびごとに、新しい命、光り輝いた命が流れ入ってくるのです。汚れた命と新しい命を交換してゆくわけです。

皆さんはご飯を毎日食べますね。食べたものは栄養になって吸収され、いらないものは出てしまう。循環しているわけです。そうしてこの体を維持し、生長させているのですが、霊なる命の”霊要素(※1)”というものを知ってはいないのですね。おかしなことです。
(※1現在は、呼吸法の唱名でたくさん取り入れることが出来ます。また、睡眠時にも吸収しています)

しかし、祈りによって、悪いものはみな消えてゆく姿として、神さまの中に入れてしまって、代わりに霊要素を瞬々刻々もらうのです。そうするといつの間にか、霊なる人間に変わってしまう。霊なる人間に変わると、怖いものがなくなるし、貧乏や病気もなくなってくるし、すべてがよくなる。完全円満になってくるわけです。

人間は本来神さまの子で、完全円満なのです。それが不完全に現われているのは、人間が自分の想いで勝手にしているのであって、神さまがしたのではありません。ですから、その”想い”をどんどん祈りの中に入れていけば、汚れた想いが浄められた想いと交換されて、完全円満な姿が現われてくるのです。

五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より