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狂操と明朗(前半)

近来、急に盛んになり出した、ロカビリーなる音楽?がある。先日ある家で、見るともなしにそのロカビリーなるものを、テレビで見てしまったのだが、これはまたなんという狂操的なステージなのだろう。演奏者のほうも二十才前後の人々で、聴衆者は勿論ハイ・ティーン族。楽器をかかえた歌手?が、まるで電気ショックにでもかけられた人のように、頭の先から足先まで痙攣(けいれん)させ、全身が中風病のような格好をして、喘息の息づかいそのままのしわがれ声で扇情(せんじょう)的にどなり散らしていると、その歌声?も聞こえぬとばかりに、女声のかな切り声が湧きあがり、はては興奮のあまり、ステージにはいあがって、歌手の体に抱きつくもの、その足先を引っ張るもの、姫御前のあられもない大狂操曲をくりひろげる。

私はこの情景をみて、全くあきれはててしまって、というより情けなくなってしまって、しばらくは声も出なかった。テレビに写っているこうした娘の姿を見ている親たちもあったであろうが、一体どんな気持ちであの有様をみつめていたであろう。あれは全く、フロイドのいうリピドーの発動であって、演奏者側も聴衆者側も、動物そのままの姿をそこにはっきり見せているのだった。

暗い陰気な生き方より、明るく朗らかな生き方がよいのだが、これはまた、明朗とは全く違った知性を失った狂操であって、神のみ心を遠くかけはなれた想いの爆発である。こうした狂操的な馬鹿騒ぎをやりうる娘たちの気持が裏がえった時は、急に憂鬱性になりかねぬもので、その動作は人間本来の大事な心である知性の働きが完全に停止している状態であって、酔漢(すいかん)の状態と相等しいものである。(つづく)

五井昌久著『神への郷愁』より