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芸術精神と宗教精神②

(つづき)宮沢賢治や吉田一穂(いっすい)や北原白秋などの詩は、その言葉がどういう意味なのか、一つ一つの意味はわからないものがあるけれど、読んでいると音楽のようにひびいてくるのです。言葉の解釈は出来ないけれど、流れてくる素晴しい生命を感じるのですね。

流行歌などは、言葉はわかるのですが、聴いていても一つも感動を受けず、ただ五感の感覚をくすぐるだけです。そんな上っ面を流れてゆくものだけでは、芸術とはいえないのです。芸術というのは、胸の中にしみこんでくる、五感を超えたその奥にひびいているものなのです。

チャイコフスキーの『悲愴』なども、非常に物悲しいものですけれども、聴いているうちに悲しみが極限にきてしまって、胸に沁み、何か心がきれいに洗われてよろこびを感じてくるのですよ。芸術というのは、心の底の底までしみこまなければならないものであって、心が知らずに浄化されてくるものなのです。

ベートーヴェンの第六交響曲『田園』や、『第九』交響曲にしても、聴き慣れない人はうるさいと思うでしょうけれど、じっと聴き澄ましていれば、単なる音ではなく、神と一致したひびきが心に入ってきて、何ともいえない気持ちに澄み切ってくるのです。

ですから、心を澄まして、じっと見たり、聞いたりする心を持たねばなりません。この心を養わなければ、人生は清くならないのです。(中略)

お父さん、お母さん方は、子供たちに魂に食い入ってくるような美しいもの、また、魂を鼓舞させる、心を明るくさせるようなよい本を読ませることです。それにはまず、親が読んでよいと思った本を読ませることです。肉欲文学などは読ませることなく、生命が光っているものを読ませることです。

文学の価値は、文章の上手下手にあるのではなく、内にあるひびきの高低にあるものです。高い心のひびきを持つものは、高い文学といってよいでしょう。文章が上手なら、もちろんそれはよいですが、内なるものの価値が大切なのです。(中略)

美しい音楽、ひびきの高い文学でも、よい絵でも、始めは慣れないでつまらないかも知れない。だけれども、じっと心を鎮め澄ませていれば、天来の素晴しい音、ひびきを感じられるようになります。

親たちはこの素晴しいひびき、色の美しさ、澄み透る流れを覚えて、子に伝えるべきです。地位の獲得や出世や金儲けなどに、大概、一生懸命になるけれど、これらはみな、消えてゆくものです。

(つづく)

五井昌久著『生命光り輝け-五井昌久講話集1』より