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人を救って光が強くなる事と自らの浄まりは別です

(前略)われわれの運動というものは、右翼も左翼もない。世界人類のために祈りを捧げる。祈りを捧げるということは、非常に効果があり、(業想念意識に包まれている)いのちを開くことになるのです。

自分のいのちがひろがると、それだけ自分の光明が強くなる。大体、自分というのは神の子なのですから、神さまの光がズーッと振りまかれるわけです。それによって救われる。

救われると、その人たちの守護霊守護神がみんな加勢してくれる。ということで、自分自身も救われる、幸せになるんです。だから自分のため、二人のため、あるいは十人のため、五十人のためにどんどん尽くしてゆけば、自分の霊界の地位は高くなるのです。

ただ、浄まるということは別です。光は強くなりますけれども、業を祓(はら)うということは別なのです。

業を祓うのは、自分自身が本当に世界平和の祈りをし、統一したりして、浄まってゆくことです。人を救うと、自分の霊の力は強くなります。

けれども、汚れは汚れでついているのです。業は業であるわけです。

業をとるのには、自分が浄まらないとだめなのです。浄まるというのはどういうことかというと、自分が反省して、常に神と一体になっている、ということです。

大勢の人を導いて連れてくる。とてもプラスです。それだけではだめなのです。やっぱり浄まらなければね。

それをうっかりすると、間違うことがあります。自分自身の癖、妬みの想い、臆病とか、いろいろ癖があります。それはまた、別なのです。

それを浄める為にはもっと奥深く自分の心に入って、「ああ神さま、私の天命を完うせしめ給え」と、たとえば怒りっぽい人だったら、「和やかになりますように、優しい自分になりますように」。嫉妬深い人だったら、「寛容の美徳が備わりますように、誰も彼もの運命が喜ばれるものになりますように」と祈る。

愛が薄いとしたらば、「愛深い私にならしめ給え」というように、欠点を長所に換える言葉、祈りを常に心の中で唱えるのです。そうしますと、だんだんそうなってきます。

五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より