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偽善者恐るるに足らず


偽善者に心せよと聖書の言葉にありますが、教会では、人を見分ける時の注意としてお説教されますが、先生はそれに全然お触れにならないのは、どういうわけですか?

回答
偽善者のことなど怖がることないのです。

偽の宗教家とか偽善者とか来るわけですが、こちらの心がいつも世界平和の祈りになって、いつも神さまのみ心に入っていれば、騙(だま)そうとしても騙せないかもしれない。また、騙されるかもしれない。

騙されたら、それは、過去世の因縁が消えてゆく姿だから、それもいいじゃないか、という気持ちなんです。あんまり問題にしていないんですよ。

自分の想いが正しい道に入っていれば、偽善者など問題ではありません。それで軽くしか説いていないのです。

一番大事なのは何かというと、現世のだた病気だけ治してあげますよ、ただ貧乏だけ直してあげますよ、という、それだけの宗教入りは大したものではないということ。

病気が治ると同時に、その人の魂も立派になってゆく、貧乏が直ると同時に、その人の魂も立派になってゆく、という道が本当の宗教である。病気を治すのはお医者さんの領分です。治療家の領分です。貧乏を直すのは、自分の想いを立派にして、貧乏にならないようにすればいい。

なぜ貧乏するかというと、過去世の因縁が流れてきてそうなるのですが、その過去世の因縁でどういう因縁が貧乏になるかというと、物惜しみしていた想い、金があっても人にやらない、そういうような想いが今生(こんじょう)になれば、貧乏になる想い、人に愛を振りまいていなかった、物を振りまいていなかったものが貧乏の種なんだから、今生になったら、あまりケチケチしない。

貧乏であればあるほど、ケチケチしないほうがいい。貧乏だとケチケチして、いちいち財布の中を勘定して、払うのも払わない、払うのもいちいち惜しんでいるようなら、それは貧乏するわけです。それは、神様もみ心にもそわない。

神様はなくてはならないものを、みんなに与えているわけです。智恵でも能力でも物質でも、なくてならないものを与えているのに、自分が勝手に「無いんだろう」と思うわけね。

私はこれくらいしかない、もし困ったらどうしょう、病気になったらどうしよう、貧乏になったらどうしょう、死んだらどうしよう、そればっかりを思っている。

それらはみんな神さまのほうで、ちゃんと神計りに計り給(も)うてやってあるわけです。だから、そういう考えをする必要はないのです。(中略)

現在、悪い想いを出さないのが一番なんです。

もし悪い想いが出てきたら、神さまの中へ入れてしまえばいい。悪い想いを溜(た)めなければいいんですよ。

明るい想いを一杯溜めておくことが大事です。だから、世界平和の祈りをうんと溜めておきなさい。そうすると、光が充満して、知らないうちに立派になります。

そういう道に入っていれば、偽善者も怖くなければ、詐欺師も怖くなければ、何にも怖くない。みんな光の前に消えてゆくんです。そういうわけで、あんまり書かないのです。

五井昌久著『心貧しき者は幸いなり』より