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勇気と度胸(前半)

問18
『如是我聞』に「勇気とはあらゆる業想念に打ち勝つことである」とありますが、勇気ということについて教えてください。


まず、気ということから説明しましょう。普通、誰々は短気だ、などと使いますが、本当は気というのは、神様の生命の流れのことをいうんです。

その生命の流れをそのまま、ハッキリと勇んで、明るく、勢いよく出すことが勇気なのです。

生命の流れが盛んに出ると、何も怖いものがなくなる。それで勇ましく、どんどん出てゆくのを勇気がある、といいますね。

例えば、正義のためならば、人を助けるためならば、向こうがピストルを持ってこようと、何をしようと向かってゆく。それはまァ、無謀だけれども、そういうものも勇気があるといいます。

あらゆる恐怖心を突破してゆく。あらゆる自分の迷い心、間違ったことを打ち破ってゆく。それはいけないんだと突破してゆく。つまり生命の働きをそのまま出してゆく。生命の働きを明るく勇ましく、そのまま出してゆく、ということが勇気なのです。

だから勇気を持たなければダメなわけです。それと素直な心、神の生命を素直に生かす心、これはもう勇気に通じるわけです。

そういうわけで、人間に大切なことは、素直で、愛深く、勇気がある、愛と真と勇気、それに美意識ですね。

勇気のない生き方は本当の生き方ではありません。ところが本当に、神様のみ心と一つになると、否でも応でも勇気が出てくる。

女の人は別としても、男の場合は、例えば、恋人と一緒にいるところに、悪者が来たとする。恋人を放っておいて、自分が逃げちゃうような男だったら、そんな男は三文の値打ちもない。男は自分よりも弱いもののタテになって、弱いものを逃がすという人でなければいけない。

勇気とよく似たものに、度胸というものがあります。今も言ったように、勇気というのは、生命の気が勇み、明るく、勢いよく出てゆくことですけれど、度胸というのは、それとは関係なく、過去世の因縁として、肝っ玉がすわっているわけです。

過去世でいろんな修行をしたりして、戦火や喧嘩の修羅場をくぐってきたりして、練磨されて、肉体の生命が死ぬことが怖くない、というような人がいるわけです。そういう人が生まれ変わってくると、度胸のある人になる。(つづく)

五井昌久著『質問ありませんか?〈2〉聖ケ丘講話』より