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勇気と度胸(後半)

(つづき)悪者にも度胸がある。警官がたくさんいるところへ忍び込んできたりする、なんていうのは臆病では出来ない。やっぱり度胸です。しかし悪度胸ですね。

けれど悪勇気というのはない。勇気というのは、みんないいことになります。

度胸には悪度胸もあれば、いい度胸もある。いいほうに使えば度胸はよくなる。悪いほうに使えば、大悪党になるから困る。

でもやっぱり、度胸があるほうがいいし、その度胸がよくなるほうがいいですよ。男は度胸、女は愛嬌というんだからね。(中略)

男は、いっぺん失敗してもいいから、やるべきことはやったほうがいい場合もある。それが度胸です。

度胸がないのは困るけれど、度胸よりもっともっと深いものが勇気です。神さまの生命がそのまま出ている。

ズーッと直感的にみて、これは正しいことだ、体を張っても、生命をかけてもやらなけりゃいけない、やろう!というのは、生命を生かすことだから、勇気ですね。そういう場合には間違いなく、うまくゆく。

そういう判断が、敏速に出来る人になるためにも、常に平和の祈りをして、祈り心で生きてゆくことが大切なんです。

案外、度胸のなさそうな人に、勇気がある場合がある。いつもは、か弱そうで、やさしくしているけれど、いざとなると、人に引けをとらない勇気のある人がいます。それは心が神さまの中にいるんです。

普通の場合には、譲るものは譲ってしまう、というふうに、引っ込んでいるけれども、いざとなって、これは譲れない、という立場になったら、スーッと勇気が出てくる。外柔内剛というんですね。そういうのがいい。

だから勇気と度胸は違う。しかし勇気があって、その上に度胸を養うことも必要なんですよ。

その根本は何かというと、「自分の生命は神さまから来ているんで、神さまが天命を下さっているんだから、神様のみ心のままに自分は生きよう。」ということで、いつも祈っていれば、ちゃんと判断がつきます。

ここはこうやるべきか、やらざるべきか。それがハッキリ判断できる人は、やっぱり勇気のある人です。(おわり)

五井昌久著『質問ありませんか?〈2〉聖ケ丘講話』より