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善人よ強かれ

善人が強く明るく、悪人のどんな行ないもその光明波動で浄め去ってしまえるようにならないと、この世がよくなることはありません。

善人と思われる人々が、お互い離ればなれで小さく生きているのに、悪人と思われるような人々が、金力や暴力で、この世の指導権をもって生きている。こんな間違った在り方では困りものなのです。

善人に強い力をもたせるのにはどうしたらよいか、それはまず、自分を責めることをやめることから始めなければなりません。

責めるより先に、自分がこの世に生きている存在意義をじっくり考えてみることなのです。

この世に自分たちのように、人に迷惑をかけたり、人を困らせることの出来ない人と、人の迷惑も人の損失も、そんなことは一切かまわずに、自分たちだけの利益をむさぼり取ろうとしている人、また、その上、暴力で人々を従わせようとするような人々と、どちらがこの世に存在意義があるかを考えてみることなのです。

誰が考えても、人に迷惑をかけず、人を困らせずに、自分たちの生活をしている人たちのほうが、自分の利益のためならどんな悪いことをしても平気な人たちよりも、存在価値のあることは当然のことと思うでしょう。

それなのになぜ、そういう善い人のほうが、自分たちの欠点を責めつづけ、積極的に世の中のために大きく働きかけないのか、ということが不思議になってきます。

それは宗教心が弱いからなのであります。神と自分たちとのつながりに確たる信念をもたないからなのです。

神は愛であり、真であり、調和である、ということを信ずることは、宗教信仰の初歩であり、そして真理そのものであります。それなら、少しでもそうした神のみ心に近づこうとしている人々が、神のみ心とは反対の方向に動いている人より、力強く生きるのが当然なのです。

善人であると自分も想い、人にも想われているような人々は、もう一度改めて、人間はすべて神の子であって、愛と調和で生きてゆくべきものだ、ということを想いかえしてみるとよいのです。

そしてそこのところから、肉体人間としての自分の行ないの欠点のほうに想いを向けないで、そのまま、神への感謝の想いの中に入ってしまうことなのです。

それを具体的な行動にしてみれば、世界平和の祈りということになってくるのです。

善人といわれ、自分でもあまり悪いことをしたことがない、と思っている人々は、今から即刻、世界平和の祈りを実行してゆくことなのです。

世界平和を祈ることは、いつも申しますように、横には人類愛の祈りであり、縦には神のみ心と一つにつながる神我一体の祈りとなるのでありますから、その上、自分の勝手な想いで、自分を責めたり、人を責めたりする必要は毛頭ないのであります。

五井昌久著『真の幸福』より