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感情の純化と”空”(後半)

(つづき)
神さまから出て来た神の分霊
でない者は一人もいない。
全部が神の分霊なんです。

その神の分霊が
本当の自分なんであって、
(中略)
神さまの子であることを
忘れてしまった想いが
積もり積もって、
癖になり、習慣になって、
怒ったり、妬んだりするんです。

そういうことをハッキリと
認めなければダメです。

だから今、自分が
腹が立って腹が立ってしょうがない、
「あのヤロー、
帰ったらひっぱたいてやんなきゃ」
と思っている。

そう思っている時に、
思いながらでいいんですよ。
思いながら、
「ああ、こう思っているのは
業のほうの私だなあ、
私は本当は神さまなんだ、
ちょっと思えないけど
神さまなんだ」とやるんですよ。

腹が立っている時、
なかなかそう思えるもんじゃない。
「こんちくしょう!」と思った時、
「私は神さまの子だ」と、
なかなか思えないけど、
思えなくてもいい。

嘘でもいい。

「神の子だと先生が言ったんだから、
きっとそうだろう。
神の子だ!こんちくしょう。
神の子だ!こんちくしょう」
と、家に帰ってから言いなさいよ。

その内に、
「こんちくしょうは消えてゆく姿。
こんちくしょうは消えてゆく姿」
とやっている内に、
怒りが直っちゃう。

直らないまでも、だんだんだんだん
薄くなってしまいます。
自分のところに出てくる
自分の心を不安にする想い、
いらだたせる想い、波立たす想い、
心臓をバクバクさせる想い、
そういう想いはすべて、
消えてゆく姿なんです。

消えてゆかないものは、
一つもないんです。
みんな消えてゆくんです。

今までの修養とか
修行とかいうのは、
「ハイ、石段を上がんなさい、
なんだ、足がフラフラしてるぞ、
ダメだ!」とやるんで仕方がない。

また上がろうとすると、
とても高くて上がれない。
引っ張ってもくれないで、
「上がれ!上がれ!」とやるんです。
だから一段上がるのが大変なんです。

そうやって一段ずつ
上がっているんですから、
上がり終えるのはとても苦しい。
それで怒られるので、
なお足がすくんじゃう。
そういう風な教えなんです。

私のは

守護霊守護神がちゃんといるので、
乗りさえすればいいんです。

乗るところは何かというと、
”消えてゆく姿”というのと、
「守護霊さん守護神さん
ありがとうございます」
という想いの中へ
乗って行きさえすればいいんです。

乗れば、スーッと
行っちゃうんです。
それを教えているんです。

そうして乗って、知らない間に
消えてゆく姿をやっていると、
だんだん空になってくる。

空なんて難しいこと
言わなくたって、
座禅観法しなくたって、
そうしていると
空になってゆくんです。

(後略)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より