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現象に一喜一憂しないために

(前略)善事をしつづけながらも、なかなか不幸な出来事が消えぬ人もたくさんある。しかし、これは憂うべき事態ではなく、その人自身や、一家一族の進化してゆくゆく姿なのである。

それは過去世から蓄積されてある、その人または、祖先の悪因縁が、その人の時になって表面にはっきり現われ、次々と消え去ってゆく姿だからである。

人間には肉体世界以外に、幽界、霊界の世界があるのだから、一番苦しみの軽い肉体界で、過去の蓄積された業因縁をでき得るかぎり消滅し去っておいたほうが、その人や、その人の祖先、または子孫のためにも幸福である。

したがって、善事をなせばなすほど、不幸な出来事がより多く現われる場合もある。しかし、それは真の不幸ではなく、潜在していた不幸がいち早く現われたに過ぎず、その不幸がより長く(幽体、潜在意識層に)潜在していて現われぬと、その人自体が味わっている不幸の何層倍かの不幸になって、やがて現われてくるのである。

であるから、どんな不幸が現われようと、この現われによって、自分および、祖先の業因縁が完全に消え去ってゆくのである、と堅く信じなければならない。

神は善事をなしている者に、決して不幸を与えるわけがないのである。絶対にないことを私は明言する。

従って、その人は自己の想念や行為をよく内省して、どう考えても、自己の想念(おもい)、行為に間違いなし、と信じられたら、そのまま、業の消えてゆく姿である、これから必ずよくなる、と断固として思うべきである。

その勇気こそ、その人を救い、その人の周囲を救う祈りなのである。

といって、今生であまり不幸に出会わぬ人は、幽界で必ず苦しむかというと、そうではない。過去世に善行をたくさん積んであった人は、今の現世で、あまり不幸に出会わぬことになる。

たいして才能もなさそうな人が、意外な金力に恵まれ、名実ともに幸福な生涯を終わる場合もある。これらは、過去世の因縁プラス、現在の想念(おもい)行為がその人の運命を決めるのである。これがまた、未来の運命とも深い関係をもつことになるのである。

ただ、人間の真の姿は霊であって、業因縁に捉われるような者でなく、自由自在であると観じ、いかなる業因縁の動きにも、超然としていられる心境になれば、現象の不幸は忽然と消え去って、再び現われなくなるものである。

そしてその人は、業因縁の輪廻を超えた神の世界に入るのである。

五井昌久著『神と人間―安心立命への道しるべ』より