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真理の光に照らされた生活⑥

現代人にマッチした光明生活ちなみに、一休禅師が宗雲老師の門に入ったときの話をしてみましょう。

一休は善道に命をかけた人でありまして、石山寺にこもって三週間の断食をしたり、観世音菩薩に断食の願をかけたりしたこともありましたが霊験を得ず、ついに宇治川に投身しようとしたのであります。その時、運よく通り合わせた雲水に止められ、その雲水から宗雲老師の機鋒峻烈を知り、直ちに老師の門を叩きましたが、何度願っても入門を拒まれ、叩き出されてしまいました。幾度、峻拒されても一休は断念せず、許されるまではと、門側に座り込んでしまいました。老師が夕刻、随侍の者と化道から帰ってみますと、門側に依然として座禅をつづけていました。そこで老師は随侍に、「水をぶっかけてしまえ」と命じました。勇ましい禅僧の随侍は大桶を掲げてきて、一休の頭から水をぶっかけました。頃は呼吸さえ凍る厳冬の時でありましたので、濡鼠となった一休の法衣から、つららが下がっていました。その深夜、老師が点検に廻りますと、凍って板のようになった衣を着た一休が、厳然たる座禅姿のままで座りつづけていたのです。道を求むるに厳冬も死をも恐れぬ一休の真剣な態度に、さすがの宗雲老師もついに入門を許した、ということであります。

昔の禅僧というものは、このように死をかけた求道心で師を求めたのでありますが、現今では、救いに立つほうが辞を低くして、弟子を求めているような有様です。

真実はこれではいけないのだと思いますが、地球世界の危急存亡の時が迫っておりますので、一人でも多くの人が真理に目覚めて、完全平和達成の一員になるように、と神々のほうから低く手を差し伸べられているのであります。

現今では、宗雲老師のような悠長なまねはしていられないわけです。といって、道を求める者にあまり甘やかした態度をしてはいけないことも事実なのであります。

現在、道に乗るか乗らぬかは、そのh時とが今後、ますますその苦悩を深めてゆくか、永遠の生命に直結するかの境でありまして、どんな努力をはらっても道に乗るべき時になっているのであります。

虚栄、虚色によって維持されている権力の座というものの空しさは、その人が肉体界を去った時、実にはっきりと知らされます。

本物か本物でないかは、この世の死に近づき、または死後の世界において、はっきり示されるのであります。(つづく)

五井昌久著『光明をつかむ』より