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誕生と往生③

(つづき)

ですから、現在泥だらけの真黒な心の人であっても、やがてはきれいに磨かれた光明体になるのですが、そのためには、あの世とこの世の生まれ変わりを何度びかつづけて、種々な体験を積み重ねて、遂いには、そのトンネル掘りの監督となり、指導者となってゆくのであります。

こう考えてまいりますと、誕生も自己の本質である神の子を現わすための出発であり、往生もあの世における体験を積み重ね、自己の本心を開顕するための出発であるのですから、誕生も往生も共に祝事であるのです。この理をはっきりわかっております神道では、亡くなった人が男なら彦(ひこ)とか命(みこと)とか名づけ、女性なら姫(ひめ)と名づけています。

そしてお祭りするわけでして、決してお悔やみではないのです。彦とか命とか、姫とかいうのは、人間本来の神性を現わした名で、彦は、霊(日、ひ)の子であり、命は、み言(こと)、コトバは神なりきの言であり、姫は、霊(日、ひ)女であり、霊の女であります。

このように本来の神性を現わすためのものとして、肉体の死をかえってお祭りとして祝ったのであります。私は心霊のことをくわしく知っておりますので、亡くなればすぐにその人が神になったり、仏と一体になったりするとは思っていませんが、霊魂についております業想念が、生まれ変わりのたびごとに落とされていって、本心開顕の道を歩いてゆく、ということのために、往生を祝事と思っているのであります。(つづく)

五井昌久著『宗教問答 (続)』より