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我在るが故にすべて在り⑤(完)

(つづき)お釈迦さまの話を前にしたけれど、お釈迦さまが王様の城で話をして帰ってくると、乞食が前に立っていた。

その乞食の前や横をどうしても通れない。

それはなぜかっていうと、お釈迦さまは過去世の因縁がわかりますから、「あぁ、わしはあの乞食に借りがある。借りがあるからどうしても返さなければいけない」といって、王様か誰かからお金をもらって、それを乞食に与え、お返しして、それで通ったという話があります。

お釈迦さまも前世の因縁は返さなきゃならない。

私なんかも前世の縁はずいぶん返しています。

わかれば先手を打って返すけれども、現われて来てむしゃぶり取られても、騙されても、「あぁ、これは過去世の因縁をお返ししたんだな。これで私は心が開きましてありがとうございます」というような気持ちになったら、その人は天晴れです。

不平不満がないでしょう。

そういう考え方が、宗教的な考え方なんです。

横の考えとしては、悪いことでも何でも置かれた環境は、すべて過去世の因縁がそこで消えてゆく姿として現われて来ている。

縦の考えとしては、自分は神と一つなんだ、自分が光ることが神さまが光ることなんだ。

神さまを現わすことは自分が立派になること……。

何も人の為に祈っているのでも、人の為に尽くしているのでもない、自分の為にやっているんだ。

自分の為にやって、自分を磨くことが神さまのみ心にかなうことなんだ、神さまへの奉仕なんだ、という考え方。

だけど、いちいち考えるのは面倒くさいから、”消えてゆく姿で世界平和の祈り”と、こうやんなさいと言うんですよ。

一番簡単に何にも考えなくていいんだ。(後略)

五井先生のお話し 昭和37年4月