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神仏の心を自己のものにする生き方(前半)

(前略)

祈り心と念力とは違います。

祈りとは、神の生命のひびきに肉体の想念が一つになって、本心をひびきわたらせようとする、その方法であり、念力は、神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現すのでありますから、その人の念力の達成が神のみ心に反する不調和なものであることが多々でてくるのです。

祈りは常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の思いを全託して、神のみ心にすべてをゆだねる方法です。

神のみ心に人間の想念をゆだねつくしますと、人間の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、その人のああでもない、こうでもないという想念波動がなくなり、その人の本心のみが働き出します。

本心とは神の心ですから、神のみ心の完全性がそこに現れて、物事が成就してゆくのであります。

念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギーが、集中して或る目的にそそぎこまれるので、そのエネルギーの力によって、目的が達成されるのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネルギーを注ぎ込めば、両者の念力合戦になってしまい、両者が傷つくのであります。

念力が強いことは、弱い人より、物事が成功していってよいでしょうが、あくまで自我の力ですから、宗教的な悟りの境地とは反対の方法の力で、宗教者が念力を人々にすすめるとしたら、それは邪法であると思うのです。

(つづく)

五井昌久著『聖なる世界へ』より