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睡眠と統一の相違②

(つづき)
統一と申しますのは、睡眠と違って原則的定期的に催されてくるものではなく、自意識的に、自分で統一の修行をしようと思うことによってなされるものであります。

そしてこの行為は睡眠と違って、一定の目的をもっているのです。その目的は、自己の本心、つまり神仏との一体化という目的を持っているのです。

そしてその方法は、自己の心をわずらわしている業想念のとらわれから解脱して、空といわれる境地に自己を置くことであります。こう申してまいりますと、睡眠は他動的にくるもので、統一は自力をもってなされるもの、と解釈されますが、現在までの統一修行というのは実際に自力的であったのです。

しかし私のやっている統一実習会というものは、統一修行をしようと思う自意識を起し、会場まで足を運んでくる労を取れば、後はこちらにすべてをお任せになればよいようになっている、統一修行なのであります。

睡眠というものは自由意志でなされるものではなく、自由意志を超えたものでありますが、統一は自由意志で入って、しかも自由意志を超えた絶対者の意志が守護の神霊の力となって、その人の本心開発のために作用してくるのであります。

睡眠の場合も、眠りに入ってからは、守護の神霊の力によってすべてがなされるのですが、目醒めて生活している時のその人の想念行為が、強くこの睡眠中に働いて、守護の神霊の働きを助けたり、妨げたりするのであります。ですから日常生活の想念行為の高低華患は、その人の睡眠の効果を左右するのであります。

例えていえば、常に人を傷つけ痛める想念行為の持主は、守護の神霊がその業想念に妨げられ、その霊魂を神界霊界の高い浄めの場に導き入れることができにくくなり、睡眠中の浄めの効果を高めることができなくなるのです。

人間という者は、自分で気づこうと気づくまいと、常にこうして守護の神霊の援助加護によって浄められつづけているのであることを、感謝の気持で思いみることが大切なのであります。
(つづく)

五井昌久著『宗教問答 (続)』より