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五井先生のお金にまつわるエピソード①

(前略)

宗教家は清貧に甘ぜよ。

これは宗教家の心すべき一つの生き方である。この言葉はいつも、私たちに五井先生がおっしゃっていたことだ。

人助けの第一線に立っているものが、金満家のようにふとっていてはおかしい、ともおっしゃった。人々の相談ごと、悩みごとに当たっているものが肥ってなどいられないよ、というような口ぶりだった。

いつだか、合気道開祖の植芝先生とおふたりでお話しをされている時、ふたりが(五井先生は五尺二寸あるかないか、植芝先生は五尺そこそこ)背が低いのは、前の世、その前の世から、さんざん身を削ってきたからだ、というようなことを、笑いながらおっしゃっていた。人類の業、人々の業を日々身に引き受けて浄めの仕事をしていては、肥るひまなどはない。

「金銭に清らかであれ」とは常にまわりの者におっしゃっていたことで、私の耳について離れない。(中略)

「お金をぜひぜひ受け取ってください、と言われて、喉から手が出るほど欲しくても、″要りません″と、言えるぐらいでなければいけない」

とおっしゃるけれど、ここがなかなかむずかしいところだ。

「私がまだ若い頃、病人に頼まれて行ったりすると、お金を是非受け取ってほしい、と言われた。けれど、″とんでもない、要りません″と言って、私は逃げ回っていたよ。けれど気がついてみると、ポケットの中にいつの間にか、誰かが入れてくれたのだろうね、お金が入っていた、ということがよくあったね」

治療師が治療の代金としてお金をもらうことは当然のことである。しかし宗教者がお浄めの代償としてお金を受け取るということは、ずいぶんと先生には躊躇があったようだ。

金銭に清らかである、ということは、金銭に把われないことで、執着から脱していることである。五井先生は神に全託することによって、この執着から解脱された。金銭欲ばかりではなく、権勢欲、名誉欲、支配欲、そして色欲からも解脱された。解脱されたけれど、常に内省を怠ることはなかった。(つづく)

高橋英雄著『五井せんせい: わが師と歩み来たりし道』より