問
個人的な不幸とか災難とかは、因縁因果で納得できますが、人間に直接関係ない自然環境、また動物の弱肉強食の世界も、人間の悪い想念の現われである、という解説を読みましたが、それでよろしいんでしょうか?答
いいです。もう少し詳しくいいますと、動物の世界は弱肉強食で、弱いものが強いものにいじめられてしまう、食べられてしまうという世界です。人間は自分勝手に意識があってやっているんだけれども、動物は本能的にやっている。神さまはそういうのを与えられたのか、神さまが愛ならばそんな世界はないわけだ、というわけですね。なかなか難しいことです。大宇宙、大神さまというのは、無限の創造で、果てしなく進歩してゆく。果てしなく進むということは、進むところがあるわけです。形の世界で考えるとわからないけれど、まだ神さまの光の届かないところ、まだ出来てないところがある。そこに光を発し、暗闇を開いて創造してゆく。
例えば、初めは神界だけだった。霊界が出来た、幽界が出来た、そして物質界が出来た。物質界が出来た時には、初め闇が海をおおってまっくらだった、と聖書にも古事記にもありますが、そこへ神さまの光が天降って、天地創造が行なわれる。神界、霊界が肉体界、物質界に現われる時が、聖書的にいう天地創造が出来て、岩がとび、あらゆるものがとんで物質化してゆくわけです。
要するに、霊波動が幽波動になり、幽波動がもっと粗い波動になる時、混沌とした世界が起こる。それは神さまの天地創造です。混沌とした時、荒れるのです。荒れているものが、どんどん荒れながら、荒れていることによって物質界が出来る。嵐みたいな天変地変みたいな形でワーッと湧き起こって、それですべての物質がちゃんとあるべきところへはまり、山も出来、陸も出来てすべてが出来たわけです。
古事記的にいえば、イザナギとイザナミの命(みこと)が、鉾(ほこ)でかきまわして国土を創ったと同じように、陰陽をかきまぜて、かきまぜたときに嵐のような形が起こって、物質界が出来てゆく。どんどん出来ていって、動物も人類もすべてそういう形で出来ている。荒れているものがまだ動物の中に残っていて、だんだん人類に進化して来た。まだ進化の過程なのです。
神さまが創造するために動くと、それが荒れたような形になる。それで荒魂(アラミタマ)とか奇魂(クシミタマ)とか、和魂(ニギミタマ)とか幸魂(サチミタマ)とか魂の形がある。だから、神さまの名前の中にも、荒い神さまもいれば、調和する優しい神さまもいれば、智恵の神さまもいる、というように、古事記にはいろいろな神さまが現われて来ていますが、それは神さまの働きなのです。はじめに、世の中をカーッとかきまぜる荒神さまがいた。それでないと天地が創造できない。
そういうものの原理が動物の中に残って、それが弱肉強食のような形に現われている。それで人類がだんだん進化してゆくと、弱肉強食はやがてなくなってくる。みんなが手をとり合い、お互いが慈しみ合う、いい世界が出来てくるんだけれども、現在の時点では、まだそこまでいっていないわけです。動物性が残っている。
神さまの調和した和魂(ニギミタマ)奇魂(クシミタマ)の線と、荒魂(アラミタマ)の線とか残っていて、だんだん調和してくる。今はその過程で、動物の中には、そういう神さまの創造原理の一つの現われが残っているのです。
だから動物そのものの中にあるわけで、肉体的には動物の進化した人類にも、業というものがあって、人類がいろんな間違った想いを持ち、争いの波を起こしている。そういう波がまた改めて、動物にも自然界にもうつってゆくのです。人類の業が自然界にうつると暴風雨にもなり、動物の弱肉強食を倍加させてゆくことにもなっているわけです。
(つづく)
五井昌久著『質問ありませんか?〈2〉聖ケ丘講話』より