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人を蔑み見る信仰心になっていないか?(後半)

(つづき)”自分がよくてお前はだめだ”という想いがもうすでに、神さまのみ心ではないのです。その一番肝心なところがわからないのです。

人を蔑むという、一番悪い想いを持ちながら、自分は信仰が深いと思っている。それは間違いです。

耳の痛い人もあるかもしれないけれど、本当なのです。人を蔑む心があって信仰が深いと思ったら、とんでもないことです。

本当の信仰が深いというのは、神さまのみ心において、みんなを崇めるという状態です。(※この五井先生の教えは現在、”人類即神也”の教えとして発展形で伝えられている)

神の子としてみんなを崇める心がない以上は、戦争が絶えませんし、喧嘩も絶えません。「私は信仰が深いけれど、あれは信仰がないから……」というのは嘘です。

そういう心は高慢な心です。それは神のみ心からみれば、みんな消えてゆく姿なのです。

自分より信仰が浅そうに見える人、自分よりだめに見える人、自分より貧乏な人、不幸な人、みんなそれは消えてゆく姿なのです。

もし自分が、他人を恨む心もなければ、貧乏でもない、金も相当にある、地位もある、病気もしない人であれば、「ああ本当に私はありがたいなあ」と思って、神さまに感謝しながら、みんなの幸福も祈ってやればいい。

そういうふうになれば、それは神の子です。神の子が現われたわけなんです。

「自分は相手より偉いんだ」、「自分は誰よりもいいんだ」というような想いがあったら、その想いだけ消しなさい。

いいも悪いもありゃしない。それは消えてゆく姿です。

本当に悟った人、神の子というのは、いいも悪いもありません。「あいつはバカで、俺は利口だ」なんて、思ってはいません。

たとえば、「あいつはだめだな」と瞬間的に思う時があったら、「ああ、それは消えてゆく姿だな、あの人は今神さまの子が現われていないんだから、現われるように、どうか守護霊さん、守護神さん、お願いします」と、なぜ祈ってやらないのかと思う。

そういうように祈ってやらなければいけないのです。(おわり)

五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より