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善にも悪にも把われず、謙虚な心で善行を

(前略)この世の肉体人間は、ともすると自分のやった善行為を自分で計ってみたり、人に計って貰いたいような気分を持っているものなのです。

無理もないように思えますが、そうした想念で善行をしても、決してその善事が自己の本心開発の助けにはなりません。これを露骨に出した、いわゆる恩着せがましい行為などは、何もしないよりまだ自他を痛め損ずる場合があるものです。

空の境地を通ってこなければ、と先きに書きましたが、恩着せがましい人々の多いこの世の中で、そんな境地に一体誰れがなれるのかという疑問が出ることでしょう。

空の境地というとむずかしく聞こえますが、させて頂く、やらせて頂く、という謙虚な布施行はすでに、空即是色の空から発した想いであって、そのまま光であり、そのまま真実への功徳への道であるのです。

何事につけても、思い上がりの気持をもつことは、その人を傷つけ低めるだけであって、決して功徳への道ではありませんので、もし皆さんが、何か他人に善事をして、その善事に把われる想いがあるような場合には、ああそうした想念も業想念で消えてゆく姿なのだと祈りの想いにすりかえるようにするとよいのです。

善にも悪にも把われてはいけません。把われる想いは、すべて業想念であります。いかなることにでも把われの想いがでてきたら、その時なるべく速やかに、世界平和の祈りの中にその把われの想念を投入してしまうとよいのです。(後略)

五井昌久著『宗教問答』より