(つづき)それで、私も本当だ、その通りだ。私も五井先生のようになろう、と思ったわけです。我々はお互いに、早くそうなりたいものです。もっとも初めて会うと申しましても、道ですれ違ったりした人ではなくて、道を求める方のことだと思います。
懐かしいという話をもう一ついたしますと、私が以前、地方の集会にお邪魔していた頃のことです。ある日、五井先生から、お前のそのお役目は済んだから、ということでストップがかかりました。
その折に先生が
「地方に呼んでいただいて集会に伺うのは非常に大切なことだ。しかし行く時には、懐かしいと思われるような頃行くがいい」
とおっしゃるのです。それは何年位経つと懐かしくなるものなのかは分かりません。そして
「集会の皆さんは、来てくれ来てくれと言ってくださる、それも本当だ。でも、もう一つの本当の心”講師に来てもらうと、お金も使わねばならないし、気も使わなければならない”というのも本当の心だ。だから”懐かしい”って言われる位の頃に行くとよい。もしも私が今出かけて行ったら、みんな懐かしいと言ってくれるだろうね」
と、おっしゃるわけです。そこで、「いや、先生はいついらしたって、みんなもう懐かしいし、喜びますよ」と申し上げましたら、
「いや、いや、私だっておんなじことだ。懐かしいと思われる頃になって行かないと、教えがあちらの心になかなか染み込まない」
とおっしゃられました。今年「我即神也」の行をやらせていただくようになりまして、すぐこの二つの話を思い出したわけです。この「我即神也」の行をやらせていただいていれば、今年ばかりでなくずーっとやらせていただいておれば、我々もなれる。必ずなれる。
初めて会った人から自分のことを”懐かしい”と感じていただけるような人間に、自分達も必ずなれる。祈りの同志の人達はみな、そうなれる。必ずなれる。それが人類救済の具体的な第一歩じゃないか、と思うようになった次第です。(おわり)
瀬木庸介著『人が神に出会う時』より