(前略)守護霊守護神が背後(うしろ)についてくれて、「ああ、そっち言っちゃこんな小さくなっちゃうよ、そっち行っちゃだめだよ」といって、その時は辛くても、例えば、タバコならタバコをやめるのが辛いとします。
私はタバコも酒ものまないから、この間の元旦に、「私は今年から酒をやめる」といってきた人もあるし、「タバコをやめる」といってきた人もあるけれどね。
「じゃあ私は何をやめようか」といったの。「人を愛することをやめようか」といった。あとないんだもの。欲しいものがないでしょ。タバコものまない、酒も飲まない。ご飯も食べられなければ食べなくていいと思っているからね。そうすると、やめるものはないですよ。
だから、タバコをやめるという苦しみがこっちにはわからない。だけど苦しいらしいのです。酒やめるのも苦しいらしい。一生懸命やめようと思うのですね。ところがやめられない場合がある。
やめられないと守護霊のほうじゃ、”これはどうやってもやめられない”といって、ポンと病気にしたりしてね。病気で苦しませちゃって、その間、酒なんか飲めなくなっちゃって、飲まさないわけですね。その間に酒の味(味覚)が変わっちゃって、苦くなって飲めない。酒の味も忘れちゃって、飲めなくなっちゃった。と、こういうのがあるんです。
そうすると、病気という苦しみだけ与えられるわけですね。酒を飲んでいたのでは、生命にかかわるから、こいつをチョンと病気にして、少し酒をやめさせてね、それで酒癖を治させちゃう。そういうこともあるわけです。
あるいは、商売がどんどん繁盛してゆく。そのまま繁盛してゆくと、これはおごり高ぶってしまって、心が曇ってだめになっちゃうから、いっぺん懲らしめのために貧乏させちゃって、それでいっぺん貧乏の中でお金のありがたさとか、人間の愛情のありがたさを知らせるために、パーンとぶん殴っちゃって、貧乏させちゃって、そしてその人の心を練る、という場合もあるわけですね。
だから、守護霊守護神はただ単に甘くて、「ハイヨ、いいよ、ハイハイ」といって、やっているだけじゃない。パーンとやって、要するに試みに会わせてね、それでその人を練磨する、ということも随分あるわけですね。
それで、みんな信仰したりしても苦しんだり、貧乏したりすることもあるわけです。
しかしそれは、なにも守護霊が悪いことをするわけでも、守護神が悪いことをするわけでもなくて、その人の業想念を一日も早く浄め去ってしまおうという、そういう計らいごとなんですね。(後略)
五井昌久著『高級霊(ハイスピリット)は上機嫌』より