スポンサーリンク

人間に一番大事なものは何か? ②

(つづき)

ところが、この何故?という疑問符は、一般の人には次第に浅くなって、自分たちの現象生活の不平不満の材料としての何故だけぐらいに止まってしまって、根本的な何故という分野から遠くに想いは行ってしまっているのです。一番大事なものを忘れてしまって、どうでもよい枝葉末節の何故だけを追い掛け回すようになってしまっているのです。(中略)

宗教面をふりかえってみましょう。宗教の世界こそ、真実、直線的に大生命の懐に飛び込み、大生命と自己との一体感を味わえる道がついているのですし、その一体感によって、人間生命がこの世に存在する原理も、人間生命そのものの目的も直覚的にわかってくるのですが、それがなかなかその境地まではゆけませんで、各人が苦慮するわけなのであります。

宗教宗教といって、神の道を追い求めているように見えながら、実は、自己の肉体生活の功利性を満足させようとしている、現象利益のみに、終始想いが把われている人々が多いのでありまして、やはり、人間に一番大事なものごとを忘れているのであります。もっともこういう人たちは、まだ宗教者というのではなくして、現象利益を種にして、宗教の道に守護の神霊が引き込もうとしている段階の人々なのであります。

初めは現象利益を目的にしてきながらも、いつの間にか真実の宗教者として、一番大事なものを自己のものとして悟り得た人もずいぶんありますので、いちがいに、そういう態度で宗教に入ってはいけないとばかりは申せません。

宗教の道に入ってくる人には種々の人がありまして、霊魂的にはあまり立派でなくとも、肉体要素が、非常に霊界の波動に交流しやすい優れた素質をもっている人もありますし、霊魂的には非常に立派でありながら、肉体的には、神霊の話などには興味をもたない人もあるのです。

そして、前者は、真実の宗教性である人類愛的精神は少ないのに、霊能的には人に教えを垂れ得る立場に立っているのに、後者は、愛他的精神をもち人類愛的であって、ひたすら神の道を求めていながらも、いささかも霊能的にはなり得ない、ということがよくあるのです。

これはもちろん、過去世からの生活様式や修業の仕方等々の、いわゆる因縁生によるところなのですが、霊魂のあり方と肉体のあり方の相違によるものなのです。

(つづく)

五井昌久著『神は沈黙していない』より