(前略)
自己の身近にいかなる悪と見え、不幸と見えるような事態が起こっていようとも、自己がこうして生かされていること、そのことそのものが有難いのだと思える人、その人の環境からは、悪と見え、不幸と思える事態は、必ず速やかに消え去ってゆくであろうことを、私は確信しているのです。
何故ならば人間は、自由自在なるさわりなき神から来たものであるから、業があるわけではないのです。
それが”ある”ように観えるのは、過去世からの、神から離れた想念がそう観るものであって、想念の慣習が、悪や不幸を観念の上に固定化させてしまったのです。
ところが業的想念、悪や不幸に自己の心を把われず、自己の生命がそのまま生きている、生かされている、ただそれだけに感謝出来得る心境の人にとっては、神がそこにそのままさわりなく生きているのであり、輝いているのであり、業的想念はすでに消え去っていて無になっているのであります。
ですから、現実面においての客観的不幸も、やがては消え去ってゆくのは定まった事実なのです。
それは、過去世から蓄積されていた分だけの業が出切ってしまえば、その後に業的想念、悪や不幸の想いを出していないのであって、その人の運命の中に、悪や不幸が蓄積されようがないから、その人の置かれた立場は、神の心だけの世界、光明、愛、神・善・美の世界だけになってくるわけなのです。
(後略)
五井昌久著『白光への道』より