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不幸を契機に運命を開く⑦

(つづき)

高橋君でも病気をひっくるめた高橋君と今の高橋君じゃ、今の高橋君のほうがいいんです。病気の瀬戸際の時に真剣に先生を思った。それは真剣に思ったけれども、今のほうが真剣というより、いつも思ってるから思いっぱなしなんです。思いっぱなしというのは、なんだか思わないような気がするんですよ。

世界平和の祈りでもそうです。常に思っていると、思わないような気がするんです。それで特別に言えば思ったような気がするけれども。実は思いつめに思いつめていると、いちいち「世界人類が…」とか思わなくても、とっさに出てくるんです。

世界平和の想いがいっぱいだから、わざわざ「世界人類が…」と言わなくても、ちゃんとここ(心の中)にあるんですよ。

例えば自分のそばにいる人は呼ばないでしょ。隣に妻が座ってるのに、「おーい妻よ」と呼ばないでしょ(笑)。そばにいるから呼ばないで済む。それと同じように、いつも神さまを自分の中に入れておくと、「神さま!」と呼ばなくても神さまはあるんです。

それは世界平和の祈りも同じことで、常に心の中に世界平和の祈りがあると、わざわざ「世界人類が…」と特別に言わなくても、ピカッとこの中(※自分の内)から世界平和の祈りが出てくる。

世界平和の祈りが出てくるということは何かというと、光っているということです。自分が光り輝いているということなんです。

だから本当は、世界平和をいちいち言わなくてもいいんです。いつも思っていればいいんです。想いが足りない時は言えばいい。

みなさんが世界平和の祈り、あるいは「五井先生!」というのを思いつめていると、いつでも思えるんです。今、高橋君が言いましたね。「世界人類が…」は長いんで、「先生!」が短くていいってね。あれは実際問題そうなんです。

本当に痛い時や苦しい時は、「世界人類が…」なんて言ってられないんです。一番短いのがいいんです。「五井先生!」でも間に合わない。「先生!」と言うんです。ついそういうふうになっちゃうんです。そういうために肉体の先生がいるんです。

(つづく)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より