(つづき)では実際にできる方法は何かというと、今まで肉体人間として生きてきた、何生もかけて生きてきた、そういう習慣の想いをなくすことなんです。
「人間は肉体なんだ」という想いを、頭だけじゃなくて、全部から無くさなければならない。
これを仏教的に言えば“空になれ”とか、労使が言えば“無為にして為せ”ということになるわけです。
ところが、なかなか空になれませんでしょ。
そこで私は、「消えてゆく姿なんだ。今現れている想いも、すべての行いも、善いことも悪いことも、すべて過去世の因縁(習慣)が現れて消えてゆく姿なんだ。善いことが現れても、それは習慣の現れなんだ。悪いことが現れても習慣の現れなんだ。だから善いことにも悪いことにも、すべて把われないで、一つの形にはまらないで、そのまますべて消えてゆく姿なんだ」と言っているのです。
あるものは何かと言ったら、大神様のいのちだけなんだ。
自分の本心、本体だけなんです。
本体というのは、宇宙に満ち満ちているいのちなんです。
五尺何寸の自分じゃなくて、太陽と同じように光り輝き、宇宙に遍満し、どこにでも一瞬にして行けるという、ものすごいスピードのある光体なんです。
自分は光なんですよ。(後略)
五井昌久著『永遠のいのち―本当の自分に出合う 聖ケ丘講話 (聖ヶ丘講話)』より