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青空の心

枝繁(しげ)き松の天なる空澄めり潮鳴りとうとうと我が胸にする
かつてこのような歌を作ったが、澄みきった天を眺めていると、人間はこの青空のように、いつも澄んでなければいけない、とつくづく思うのである。

このように澄みきった清らかな大らかな、人間の本心を覆うものは何かというと、感情想念である。この感情想念を巧みに制御出来れば、人間は素晴しい神の子の姿を自ずとそこに現わすのである。

悲しみ、苦しみ、喜び、痛み、そういう喜怒哀楽を感情想念といい、この感情想念がこの三界、業生の世界を作っているのである。これを業想念というのである。

この業想念を超えるためにはどうしたらいいか。感情想念を持ったままでいいから、祈りに入ってしまうのである。じーっと本心の中に想いを入れてゆくのである。

いわゆる鎮魂してゆくと、本心の奥にある神のみ心がずーっと表面の心に伝わってくる。それが祈りなのである。

祈りの中で一番いいことは、世界人類が平和でありますように、という深い大きい愛の心が凝縮した言葉である。毎日毎日、怒りの想い、妬みの想い、淋しい悲しい想いなどがくるその時に、「神さま有難うございます。守護霊さま守護神さま有難うございます。世界人類が平和でありますように。」とひたむきに世界平和の祈りの中に入ってゆけばいいのである。

法然親鸞が念仏一辺倒で、なんでもかんでもすべてを阿弥陀さまの中に入れたと同じように、すべての感情想念を、「世界人類が平和でありますように。守護霊さま守護神さま有難うございます。」と感謝と祈りの中へ入れきってしまうのである。

そうすると、もろもろの感情想念は次第に薄らぎ光に昇華して、青空のように澄みきった心になるのである。いつも心が澄みきっていて把われがない、いつもさわやかで愛に充ちている、そういう心境を自分のものにすることが宗教の極意なのである。

現象利益があるのはもちろん有難いことであるけれども、それはほんの枝葉のことである。今日も明日も青空の心を心として、祈りに祈りつづけ、守護霊守護神に感謝しつづけていくことである。神さまはかならずあなた方を守りつづけて下さるし、あなた方は神さまと一体になって、誰に何を言われなくとも神の子の、さわやかに澄みきった日常生活が送れるようになるのである。

五井昌久著『失望のない人生』より