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心を尽くし、精神を尽くし、想いを尽くして、神を愛する

人間が自己の不完全さを、神の分生命でありながらの不完全さ、と思っている以上は、決して神を知ることは出来ないのです。

人間の不完全さは、神の分生命が真実にこの世において完全の働きをしていないところから生まれてきているのであって、神の分生命であると人間が自覚してゆくに従ってその不完全さ、つまり業想念所業は、消え去ってゆくのであります。

人間は、他にも自己にも常に完全さを望んでいるのでありますが、業想念がその完全さを妨げているので、自己の心の中に完全さが現われぬとき、あるいは他の人の中に完全さが現われぬとき、不快な嫌な気分になるのであります。その人が良心的であればあるほど、その想いが強いのであります。

それは真実な想いではありますが、自分自身を不快に想い、人を嫌悪するようでは、その人は神の中に無い不完全さという現象にとらわれているのです。

そうしたときにはその境地を一歩出て、業想念の世界、不完全な世界を抜け出す為に、そうした不快な想いも、不完全な姿も、それはすべて自分の中に、またその相手の中に、神の光が輝き出ようとして、不完全さがほどけて消え去ってゆくところなのだというように想い、その想いを守護の神霊への感謝に融けこませてゆくのです。

不完全なものは、すべて実在ではありません。それはみな神の姿が現われる為に誤ったものが消えてゆくときの姿なのです。

永遠の生命というもの、真実の幸福というものは、不完全なる業想念所業の中にあるものではないのです。

ただ完全なるものの中にだけあるのです。完全円満なるもの、それは神の姿にしかないのであります。

永遠の生命も真実の幸福もイエスのいう如く、心を尽くし、精神を尽くし、想いを尽くして、神を愛することよりないのであります。

神はあなたを心から愛する悟った祖先霊のうちに、守護の神霊のうちに、また、救世の大光明として、あなた及び人類のすべてを守護しておられるのであります。

天も神の姿、地も神の姿、山川草木、風火水、すべて神の姿の現われであると共に、あなたも、そしてあなたの父母も、あなたの隣人も、神の現われであるのです。

何故なれば、神はすべてのすべてであるからです。

神は生きとし生けるもののうちに、その姿を生かし、その完全性を次第に映し出そうとしておられるのであります。

その神の経綸のために、人間として生かされている分生命は、只ひたすら自己の不完全性への否定をしつづければよいのです。

病苦も貧苦も妬心も憤怒も、そして悲哀も、それはすべて神の完全性がこの世に現れきった時に消え去りきるのであります。

うつるもの
おのづうつりて
おのづ消ゆ
己れは澄みて
ただひそかなり
の歌のように、この現象世界のすべての現われにいちいちとらわれる想いを、神への感謝の想いの中に投入して、自分自身を光明一元にする行を昼夜の別なく行なってゆく時に、はじめて人間の理想が現実世界に現われてくるのであります。

その一番の近道が、私の提唱している世界平和の祈りであるのです。

自分が善い、人が悪い(という想い)も、すべて世界平和の祈りに切り替えて、日常生活を送ってゆくことが、あなたの救われの道であり、人類を救う菩薩業でもあることを、かたく信じていただきたいものであります。

五井昌久著『愛・平和・祈り』より