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神と人類とが一体になった地球世界の進化のために

天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらない。といった福沢諭吉の言葉とはまったく反対の想いを大半の人はもっている。

それは人の上に立ちたいという想いである。たとえ一人の人でもよいから、自分の自由に動かすことのできる人が欲しい。常に自分を上に立てて従ってくる人が欲しい。中にはそんな想いの全然無い人もあるけれども、大半の人は、誰かに立てられたい、誰かに従ってきてほしい、と想っているのである。

学校での先輩、会社での上役、宗教団体での先達、代議士、大臣ともなれば勿論いうことなしである。この想いは、大小問わず、権力欲の現われに他ならない。

権力欲とは、自己顕示欲の拡大したものである。自己を顕わしたいという想いは、個人や社会の進歩の原動力ともなって、あながち、悪い想いである、とのみはいえないが、これが権力欲というように、その欲望が強められてゆくと、自己や自国の権力を振るおうとして、他人や他国との調和を破ってしまうのである。それは現在までの世界の歴史がよくこのことを物語っている。

この世界に権力欲というものが存在する限り、地球世界の平安は絶対にこないといってもよい。といって、現在までの世界観で生きていては、この権力欲というものがこの世界からなくなるとは思えない。

それではこの世界は救われないかというとそうではない。何故かというと、この世界には神の慈愛のみ心が働いているからである。調和そのもの完全円満そのものの神のみ心が、一瞬の間もなく働きつづけているからである。

私はその救済の力を、守護の神霊の大光明波動といっているのである。人類が神の救済の力を信じられず、人類自体の力だけで、この世界に平和を築き上げられると思っていたら大間違いである。人類の業に蔽(おお)われた想念行為だけでは、到底地球世界を救うことはできないのだ。

それは権力欲という、一つの問題だけを取り上げてみても、どうにもならないことはハッキリわかるのである。その場その時々だけの救われは、物品や政治手段によってできるかもしれない。しかし、人類の権力欲や自我欲望や闘争心などは、人類自体では消滅させることのできない業の波動である。それを自分たちの力だけでできると思い上がっているとしたら、人類の滅亡は時間の問題となるであろう。

地球人類の救われは、まず根底に神の人類救済の力を信じ、常に世界平和の祈りを神に捧げながら、人類の業の波動の消滅を願いつづけ、その場その時々に自己の力を結実させてゆくことによって成されるのである。神と離れた肉体人間としての力みなどは、本質的な人類救済にはなんら力のないものなのである。

神と人類とが一体になった地球世界の進化こそ、地球人類の完全平和達成の道となるのである。その方法が世界平和の祈りである。

祈りとは、単なる願い事でも、依頼心の発露でもない。人間の本質的な力を余すことなく発揮するために、神と一体化する方法なのである。

消極的にみえながら、最も積極的な方法が、世界平和の祈りを根底にした地球人類救済の働きなのである。

五井昌久著『行雲流水』より