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結婚観について

結婚は人間にとって重大な事柄の一つであって、というより女性にとっては最大の重要事であるので、よさそうな月、よさそうな日を選んで、その結ばれを実現したいのは無理のないことである。

この結婚については種々な考えを持つ人々がいるのであるが、最も相違した二つの考えを挙げれば、一つは、結婚とは陰陽二つに分かれた一つの霊魂が再び一つに結ばれたのだから、いかなる事情があろうとも絶対別れてはいけないのだ、それは神への大なる反逆である、という考え方と、結婚というのは社会という一つの枠を形づけるための方便で、実は男女はどんな結ばれ方をしようと自由なのだ、ただそういう形をとるだけなのだから、嫌ならどしどしやり変えたらよいのだ、というような考えとである。(中略)

さて私はどのような考え方をしているかというと、結婚とはもちろん、霊魂が肉体を通して一つに結ばれるものである、と思っているのだが、それが必ず一つの霊魂が二つに分かれたものの結ばれであるというような、単純な宗教観ではない。実相としてはそうだろうし、理想としてもそうありたいのだが、この現象の肉体界では、そういう結婚は実に数少ないのであって、業生によるむすばれが大半なのである。

それで私は、守護霊同士、または守護神同士の結ばれによる結婚と、業生(業因縁)によるものとの二つに分けて説明しているのだが、業生の消えてゆく姿の結婚のほうが実に多くて、神々の調和による結婚が実に少ないのを、私は多くの家庭を観察して感じているのである。

結婚は一つの霊魂が二つに分かれて再び結ばれたものであるなどと、理想論だけを振り廻わされては、苦しみ死(じに)しかねない人々も出てくるだろう。この世での生活は、すべて理想と現実をはっきり分けて考え、現実を理想世界にまで高め上げなければいけない。理想をすぐさま現実にもってきて考えたり、実行したりしようとすると、かえって現実生活を打ち壊してしまうものである。

結婚もその通りで、二つに分かれた霊魂がもとの一つになるのであったら、夫婦が不調和であったり、お互いの気が合わなかったりするわけがない。そこで、私の説くような、お互いの業想念の消えてゆく姿としての結婚、という考え方も必要なのである。ただし、私の消えてゆく姿の底には、神の子としてのお互いの姿があることを忘れてはいけない。

守護霊、守護神への感謝と世界平和の祈りによって、しだいに消されてゆく業生の結婚生活は、やがて守護の神霊のみ心によっては、そのまま神の子としての結婚生活と生まれ変わってくるか、あるいはその結婚生活はそのまま消え去ってしまって、新しい結婚生活にお互いが入ってゆくかも知れない。

一つの霊魂が分かれてという理想論では、消えてゆく姿のような、自他を責め裁かぬ自由な心の動きにはなれない。私は唯物論的な結婚観は間違っていると思うのだが、こういうわけで、凝り固まった宗教観念による結婚観にも不賛成なのである。

五井昌久著『神への郷愁』より