どんな状態になっても、深い祈り心さえあれば、常に生活の危険を乗り越えてゆけますが、祈りのない生活ではこの世を安穏(あんのん)と暮らしてゆくことは出来ません。
一人一人の運命は、大きなことはもうすべて決まっているのですが、自分たちの力で運命が変えられるように、人々は思っております。肉体人間の力ではけっして運命を変えることは出来ません。
運命を変えることの出来るのは、守護の神霊の力によるのであります。肉体人間が、いかに守護の神霊との交流をスムーズにしているかによって、その人の運命の上昇が行なわれてゆくのです。
明日のことを思い煩うな、ということはそういうことで、現われてきた現象はすべて消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝行で生活してゆくことが、宗教信仰者の唯一為すべきことなのです。
この肉体人間が、神の光明と一つになってゆくということで、この地球という物質世界も、神霊の世界のように光明化して、運命を自由に変えることが出来るようになるのですが、その事実を知るのには、長い時間がかかると思わねばなりません。
肉体人間のほうで、いくら明日のことを思い煩っても、明日以後の定まった運命が次々と現われてくるので、どんな方法をとっても急に変わるわけはないのです。すべては長い年月の上で、神々が神計りに計り給(たも)うて、その日その日の、その人の運命を現わしておられることなので、すべてをよしと思って神々への感謝の生活をしてゆくことが、肉体人間の為すべきことなのです。
しかし、なかなかそういう思いになれませんので、そこに祈り心というのが必要になり、神への感謝の祈りを捧げつづけることが大事になってくるのです。明日のことを思い煩う時間を、すべて神々への感謝の祈りに変えて生活してゆくことによって、肉体人間の生活がいつの間にか、神々の光明化の中に生かされてゆくことになるのであります。
そしてその一番善い方法が世界平和の祈りのような、自分たちのことも祈ると共に、世界人類のことも祈っているという、個人人類同時成道の祈りの道が、地球人類の道として、素晴しいものになってゆくのです。
地球界に住む人間が明日のことを思い煩うのは、過去世からの習慣性なのでして、この思いの多い人と少ない人とがあるわけです。しかし、どちらの人も、世界平和の祈りの道を素直に歩んでゆけば、自分たちの運命をすっかり神さまにゆだねたことになり、自分たちの未来の運命は、光り輝く状態しか出てこないことになるのです。
頭の中だけで、いくら生活の知恵や知識が湧いてきても、祈り心を離して行じていては駄目で、祈り心を根本に生活してゆきますと、日々の生活の智慧や知識が、神のみ心をそのまま現わすものになってゆき、この地球世界の人々が安心立命した生き方になってゆくのです。そうなる為には、先にそのことの真理に気づいた人が、率先躬行(そっせんきゅうこう)して、祈りつづけてゆかねばならないのです。
五井昌久著『祈りのある生活』より