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気持ちがイライラするときは(後半)

(つづき)

恩着せがましい気持ちで云うのでなくしても、そういう考え方のくせがついてしまいますと、つい何気なくそう云ってしまうものなので、口癖というか、一種の習慣になってしまうのです。

ですから、気持ちの乱れも、体の不調も、いちいち自分の業とか、憑依作用とか思う必要もなく、ただひたすら消えてゆく姿と想って、世界平和の祈り(神のみ心)の中に飛び込んでしまえばよいのであります。

どんな想いにでも把われてしまえば、それが業になるのですから、把われぬということが、自己の心を平安にする一番大事なことなのであります。(中略)

業想念の把われから解脱し得ますと、人間は神の子であるという、体験的実観で生きてゆけるようになるもので、安心立命して人類のために働けるようになるのです。

ですからどんなに気持ちがいらいらしようと、心が落ちつかぬ時であろうと、その気持ちのままでよいから、世界平和の祈りの中に飛び込んでしまうようにするのであります。

世界平和の祈りは、そのまま神のみ心であり、大光明でありますから、自己のものであれ、他からのものであれ、すべての業想念を消し去るに決まっているのです。

何たびかは世界平和の祈りを想う気持ちさえも、そうした業想念が邪魔してしまうでしょうが、それでもよいのです。

世界平和の祈りの想念が心のどこかにあれば、やがて必ず、どんないらいらな気持ちの中からでも世界平和の祈りの大光明につながり得るのであります。

(おわり)

五井昌久著『宗教問答』より