スポンサーリンク

本当の宗教生活は業想念を超えた処にある③(完)

(つづき)私のやっているのは、ご利益を与えることだけが本筋でなくて、本心の開発、自分の魂が本当に神様と一つになって、なんの不安もない、安心立命の生活がそこに築きあげられるような、そういう導き方をしているわけです。

それに付随してご利益がどんどん出てくる。自分の満足も出てくる。

想いの満足じゃないんですよ。

宗教的法悦というんでも間違えて、「自分の想いが満足したから有り難い、嬉しい」とやる。

想いの満足なんて業想念なんだ。

業想念で満足したり嬉しがったり、悲しがったりするのはダメなんです。

そういう業想念を超えたところに、本当の宗教があるんです。それを私が説いているわけですよ。

宗教というのは、どんなに悲しい想いや、辛い想いがあろうと、その想いのまま、ジーッと辛抱して祈りの中に入ってゆくんです。

入ってゆくに従って、ズーッと消えてゆくんです。それが宗教の生活なのです。

やはり自分の運命というものは自分が築くのだから、自分がしっかりしなければダメですね。

自分がしっかりして、神様の中へ入ってゆくのです。

世界平和の祈り一念で、何があろうと祈るんだ、どんな辛いことがあっても、なんでも祈り祈り祈りつづけなければダメですよ。

そうすると、パーッと開けます。

それ以外に救われる道は絶対にありません。

それで救われなかったらもういっぺん、やり直してくるより仕方がないですよね。(後略)

五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より