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人間の実相(神性)を観ることについて④(完)

(つづき)天の真理を地上に顕現するためには、どうしても守護霊、守護神という光の柱と、消えてゆく姿という真理の言葉が必要なので、ただ神の子完全円満という観念の言葉だけでは、どうしてもその後に、「こうしなければいかない」という説教の言葉が出てきてしまうのです。

天の理想を地の現実に現すためには、今日まで幾多の聖者、賢者が、種々と教えを説いていたのでありましたが、その教えとは、天のほうを主にして説いたり、地のほうのいわゆる修養して天に昇ってゆく方法を説いたり、無為とか、空とかいう教えで説いたりしていたのであります。

そして今日では、天と地が十字交差するちょうど中心に位する教えが現れなければならなくなっているのであります。

その中心の位になる教えというのは、天の真理をもっとも無理なく、誰にでも容易に行じ得るものであって、それを行じることによって自己も救われ、人類も救われるというような教えであるわけなのです。

理想に片寄っては行じにくくなり、行じているようでもそこに無理が生じ、地の現実に片寄っては、いつまでも相対的な利害関係を離れ得ぬ、その場その場のものになってしまいます。

そこで私は、世界平和の祈りという、わかりやすく、行じやすく、そして自己の浄化と人類社会の浄化が同時にできる方法を神様から広めさせられているわけなのであります。

無理に悪や病気を見ぬようにするより、悪は悪と見て、それも消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまうことの方が、より自然で実行しやすいのであります。(後略)

五井昌久著『宗教問答 (〔正〕)』より