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人間の実相(神性)を観ることについて③

(つづき)なんでもかんでも悪を見てはいけない、となりますと、他の人や事柄を悪と見るたびに、「自分は神の子でありながら、なんていつまでも悪い想いがなくならないのだ」というように、自分の心を責めさいなむ想いになったり、相手の悪を認める想いを充分にもちながら、いかにも悪を見ぬように自ら自分の心をだまして、相手の悪を見まいとするのであります。

これは偽善といいまして、自己の心に不正直なやり方で、次第に潜在意識に自己に嘘つく想いがたまってしまって、それがついに習性のようになり、その人の人格的雰囲気が汚れてしまうのであります。肉体人間の業想念、つまり利害得失で動きやすい人間性をいうものを無視した神の子論・実相論には、どうして無理があるので、自己を偽るか、他を偽るかしないと、一般の人々はそうした教えに付いてはゆけないのです。そこで私の教義が生きてくるのです。

― 人間は本来神の分霊わけみたまであって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているものである。この世のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤てる想念が、その運命と現れて消えてゆく時に起こる姿である。いかなる苦悩といえど現れれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今から善くなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想いつづけてゆけば、人間は真の救いを体得できるものである ―

この教義を根本にして、世界平和の祈りをする時、悪と見えるものを、強いて悪ではないなどと自己の心をだまして、完全円満と思おうとするような、そんな無理なことをしなくとも、自ずから自己の神性(本心)の輝きが外に現れて、悪と見えている人々も自然と、その業想念が消え去ってゆき、「拝み合いなさい」などという言葉を超えて、いつの間にか真実善なる人になってゆくのであります。(つづく)

五井昌久著『宗教問答 (〔正〕)』より