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把われなき生き方

ある人が神さまのみ心を知って、光の中に入っているとします。その人は昼間は会社に勤めている。夜、家に帰ってきて、あるいは日曜日は統一ばかりしていて、子供が話しかけてきても、妻が話しかけてきても、また何か用を言ってきても、そんなの全然相手にしない。お祈りばかりしている。

そういう生活をつづけていたとすれば、家族とも仲が悪くなりますし、調和した家庭とはなりませんでしょう。それは光に住して光に把われてしまっているわけです。(中略)そういう生き方では、せっかく神様の中に入っても、かえってこの世にとって、マイナスになります。

よく宗教をやっている人で、自分の悟りというものを目の前にぶら下げて、オレは悟っている、みんなわからない奴だ、馬鹿な奴だ、と思って生活している人がよくいます。(中略)

悟りの道といったって、自分だけが光に入っちゃって、他を相手にしない、誰とも口をきかないということでは、この地球世界では生きられないわけだし、人々を強化してゆけない。

本当の偉い人というのは、自分は光に入り、空の境地も体験していながら、迷っている、つまらないことを言っている人たちともお付き合いし、相手にし、相手の中に入りながら、しかもだんだん相手を引き上げてゆくのです。

引き上げるといったって、自分が教育してやろうとか、自分が浄めてやろうとか、自分が自分が……というのではなくて、自分が相手の中に入って、相手の立場に立っていると、自然に相手の人がその人格に感化され、知らない間に心がきれいになってゆく、ということになるのです。

そういう人間になればいいわけでしょう。そうなるためには、自分が光の中に入った経験もある、空になった経験もある、それで、しかも業に把われないで、業の中で生活している人と一緒になって生きてゆく、和して同ぜずですね。それが把われがないことなんです。

そういう人間にならなければダメだと私は思っているし、自分もそのように実行しているわけです。(後略)

五井昌久著『我を極める―新しい人生観の発見』より