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肉体を神の社、神社にしよう

神と人間との問題は、なかなかはっきりつかめぬことが多くて、宗教者としてこの道一本でやってきている人々でも、確たる答えをなし得る人が少ない。

天にまします神という風に、神の場を限定してしまうと、人間は神の下僕というように、主従の関係になってしまったり、被造物という感じになってしまって、神と人間との間に遠い距離ができてしまう。従って、親様というような親近感がなくなってしまう。こういう神観だけだと人間は常に行動を監視され、とがめられ裁かれる気持がしていて赦されるという感じが少ない。敬虔な心にはなるが、小さな枝葉の事柄にもいちいち気を使って大きな広い心にはなりにくい。

また仏教的に神(仏)は人間の内にある、というように、自己のうちにある神仏を開発しようとして、自己の外の神仏を問題にしなくなると、修行がなかなか困難な自力修行になってきて、今日の社会生活の中で、実にむずかしい生き方になる。こういう形の中からは、唯物論者と同じように、無神論者を生み出してしまうことにもなりかねない。自己を開発し、自己を救済するのは、自分自身以外にはいないと思い込んでしまうからである。

といって、常に神社仏閣にある神仏を求めて、そうした神仏に自己の救済を求めているような宗教的な在り方は、自己の本心開発がおろそかになりがちで、何もかも自己の外なる神仏に依存してしまって、自主性を失ってゆく。先日も伊勢にいって、改めて、思ったことだが、神社仏閣にはいつでも神仏がおわすのではなくて、信仰深い人間の光明波動が、その神社仏閣にうつって、そこに外面的に神仏として現れてくるのであって、主体は自己の信仰心にあるのだということである。

だから、人間は神というものを、天にあるものと思っているだけでも、神社仏閣にあると思うのみでもいけない。内にある、と思うだけでもいけない。

神とは宇宙に遍満している大生命であり、分け命としては人間の内部にあって、人間の肉体をその働き場所として使っているのであって、神と人間とは本来一体のものであり、命の親子関係にあるのだ、ということを知らなければならないのだ。

そして、宇宙に遍満している大生命を宇宙神といい、人間内部に働いている神を直霊ー分霊(わけみたま)といい、外部的に人間及び人類を守りつづけている神霊を、守護の神霊というのだということも知るべきなのである。

このように神は一神であって多神として働いているのであり、人類は神の分け命であり、神の裔であるのだから、この肉体をもった人間が、業想念(カルマ)の波を浄め去って清浄そのものになれば、肉体はそのまま神社なのである。

そこで人間は自己が一日も早く正常身になるように、守護の神霊に祈りつづけ、自己の心身を浄めさる行動を常になしつづけてゆくことが大切なのである。

そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えを広めているのであって、個人の精進がそのまま世界人類の清浄身になり得るような道を開いているのである。

複雑微妙なる構造をもっている人間の肉体が、ただ単なる木材でできている神社仏閣より、神に遠いということは馬鹿気たことなので、人間の肉体が、神の社になりきるよう、たゆみない祈り心で、人間は生きねばならないのである。

そうすることによって、世界人類すべてに神のみ心がそのまま現れ、世界人類の平和が実現することになってくるのである。

五井昌久著『神への郷愁』より