たゆまざる“いのち”の洗濯を②

(つづき)罪悪深重の凡夫が、一日として行いのなかで消えてゆく姿として現れてこないものはないわけ。

その消えてゆく姿が病気になったり、想いの間違いになったり、喧嘩になったりしたりして、行動に表わしてしまっては大変だから、行動に表さないようにするために、自分の想いも人の悪い想いも、自分の都合悪いことも、あらゆる想いも出来事もすべて、世界平和の祈りに入れ、平和の祈りの大光明のなかで消してもらいなさい、それが一番いいんだよと、こういうふうに私は教えているんですよ。

どうして世界平和の祈りの中に入れると消えるかというと、神様というものは完全円満なんです。大光明なんですね。

大光明はどういうふうに現れているかというと、直毘なおび、直霊として現れている面と、守護神として現れている面と、分霊わけみたまとして現れている面と、守護霊として現れている面と、四つの現れ方をしているんです。

その四つの現れが協力をして、要するに直霊と守護神が協力する、分霊と守護霊が協力する、そうしてみんなが一つになる。その時に初めて、人間が神の子になるんです。

分霊だけが神の子で完全円満なんてことはありっこないんです。業があるから。

形の世界には必ず業が伴うんです。形が生まれてくるときには、邪な想いもあればいろんな欲望があって生まれてくるんですからね。だからそれが完全円満ということはないんだよ。形の世界では。

それを神様の波動の大光明で、洗って洗って洗い抜いて、それでキレーイな肉体にするわけです。

それで、キレイな肉体になった人を菩薩というんですよ。もっとキレイになれば仏さんになる。

そのように、キレイにキレイに磨いてゆくわけです。下着やサルマタなんか自分で洗えばいいわけでしょ。ところが魂というのは、どうやって洗えばいいかわからない。こすったって魂はダメなの。

洗っていただくよりしょうがない。魂だけは自分で洗うことができない。(つづく)

五井昌久著『講話集〈4〉想いが世界を創っている (講話集 4)』より