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不幸を契機に運命を開く②

(つづき)

私はなるたけ楽をさせて、いたわっていたんです。なるたけ動かさないように、なるたけ休ませるようにしてたんです。なぜ休ませるようにしたかというと、先がわかってるんですから。もう一に静養しなければだめなんですね。

一番危険なのは、病気であっても「病気はない」とやるんですね。「病気じゃない。お前寝てちゃいけない。寝てるから病気なんだ。ない病気でなぜ寝てるか。起きなさい!」てなこといって、山登りなんかして死んじゃった人もあるんですよ。

この前も話したけれど、Nさんの姪御さんがやっぱり病気だった時に、他の宗教やっている人が親戚か知り合いかにあって、要するに病気なのに働かせたりするんですね。それで私のところに相談に来たときに、私は、「もう絶対にお医者にかかって、安静にしなきゃだめだ」といったんです。今はすっかりよくなって退院しました。

そういうように、無茶をしてもだめなんですね。その人の体に合わないのに働かせたってだめなんです。「病気はない」というのは本当の言葉だけれども、そこまでいかない人に、「病気はない」なんていう教えをすると逆になってしまう。無理をしてしまうんです。人間の肉体には限度がありますからね。ほんとうに神通自在にならないかぎりは限度がある。

だから疲れた時は休めばいい。眠たい時は眠ればいい。お腹がへったら食べればいい。そのように、疲れた時に無理して働くことは、あまりいいこととは思えないですね。

そういうことで、真理の言葉も行き過ぎますと、実行が伴わないで、現実と真理がうんと離れすぎちゃって、ついにいのちを殺しちゃうようなことがあるんです。病気というものはやっぱり心の影だといじめてみたり、病気がないといってみたり……。

するとだめになっちゃうんです。私は逆に、高橋君がかわいそうで、かわいそうでね。一日一日、死の世界が迫ってくるんですからね。そのうちに家に帰ってしまい、寝ついちゃったんです。その時はすでに肺結核で、腸結核で、喉頭結核でという状態で、もう線路すれすれだったんです。これでもって家中の人が全部、神さまに生きるも死ぬも任せきらないと生きないんです。ところが、それがうまく成功したんです。

(つづく)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より