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すべては人を救うための魂の経験④

(つづき)

学校でも三年なら三年、五年なら五年と決まっていて、その年限を超えなきゃダメでしょ。悟りへの道というのは、感謝すればそれでいいのです。

どんなにすごいことが来ても(※ 大変な状況が現れても)感謝して、「ああ、有り難うございます」と(※ 思えるように)なると、段階が一段階超え(中略)るんです。

その環境で魂もスッカリ満足すれば、「有り難い」となる。「有り難いなぁ」という気持ちが出ると、一段階上がるんです。

「有り難いなぁ」で一段階、楽ですよね。

毎日だって出来る。

「有り難いなぁ、有り難いなぁ」とやればいいんですから。それは、私などの経験でもそうなんです。

「神様、有り難うございます、有り難うございます」、寝ても覚めても「神様、有り難うございます」だけやったんだから、私。

その時は、消えてゆく姿はないんだからね。世界平和の祈りもないんですよ。

「神様、どうぞお使いください」って、神様に命を投げ出してから、あとは何をしたかといったら、「神様、有り難うございます、神様、有り難うございます」、電信柱にぶつかっても「有り難うございます」、蹴とばされても「有り難うございます」、悪口いわれても「有り難うございます」、なんでもかんでも「有り難う」。

わざとやってるんじゃないんですよ。「有り難い!」と出てくるんです。

そういうふうになっちゃって、「有り難い」と思うたびに一つずつ上がっていった。

その前に、ある行者が私のことを見た。その時、私が恋愛かなんかしている時なんだ。

どういうわけか宗教をやっている人は、恋愛なんか嫌がるんです。恋をしたりすると、「それは迷っている」と言う。迷ってるんじゃない。恋だって体験なんだからね(笑)。

私が、「どれくらいで悟れますか?」と聞いたんです。そしたら、「悟りなんて大変だ、何段階も何段階もあって、なかなかお前なんか悟れない」とその人は言った。

その時、別に私はなんとも思わなかった。ただ、「有り難う」と思っていた。そう行者に言われて間もなく、パッと、それから一年もしないうちに悟ったんですよ。

行者がなんと言おうと、行者にはわからないだけであって、自分がやりさえすればいい。何をやればいいかというと、「有り難う」だけで行っちゃった。

「神様、有り難うございます、有り難うございます」だけで、スーッと上がっていった。

(つづく)

五井昌久著『講話集〈5〉いい時に生まれた (講話集 5)』より