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睡眠と統一の相違③(完)

(つづき)
統一の場合も睡眠とここのところはよく似ていまして、自己の雑念で統一を妨げてはいけないのです。雑念はすべて消えてゆく姿として観ずる練習が必要なのですが、私のところへ来ておられる方は、この練習さえも自意識でやる必要はないので、ただ統一会に数多く出席していれば、自然と深い統一状態を体験するようになるのです。

また、統一会に出席できない人は、世界平和の祈り言の中に善悪すべての想念を、ふんわりと任せてしまうことがよいのです。自分一人でも世界平和の祈りをつづけていれば、自然と統一のその状態を体得し得るのです。

それはちょうど称名念仏と同じような調子でやればよいのです。それでうまくゆかなければ、その都度、私の名を呼んで下されば、私がこちらから統一のお助けを致します。

要するに、人間ははじめから神と一つ生命の神の子なので、調和統一しているのが本質なのです。ところがこの統一を邪魔しているのが肉体幽体にまつわる業想念なのですから、この業想念をどこかへ消滅してしまえば、元の統一体に還えるわけなのです。

この原理をやさしくわかりやすく行じさせるのが、私のやっている統一修行の方法なのです。私は皆さんの業想念の消滅場所として存在しているので、皆さんはただ世界平和の祈り言の中に、または私の中にふんわりと入っていれば、知らない間に神との一体観、元の本質的人間を体得でき得るのです。

ですから私のところでは、他の坐禅会のように居睡りしたりする人を棒で叩いたりは致しません。棒のかわりに私は柏手を打って、居睡りの隙間に入りこもうとする良からぬ波動を、普通いう睡魔を、光の波で浄め去ってやるのです。

睡魔でも何魔でも汚れた波動はすべて、世界平和の祈りのもつ大光明ではらい浄めてしまうのです。その方法が世界平和の祈り言であり、私の柏手や印となって形の上では現わされているのであります。

生命の働きを自由自在にするための方法が統一であり、そうした統一された人間を多くつくりだすのが、私の世界平和の祈りの運動なのであります。

皆さんは今夜から、睡りに入る前には必ず世界平和の祈り言を唱えつつ眠りに入って下さるとよいと思います。そうすればあなた方の睡りは、全く統一と同じ状態の睡眠となるからなのです。

定まった統一の時間は勿論ですが、歩いている時、乗物の中、起床時に就寝時に、常に世界平和の祈りをなさっておられると、その祈り心は、仕事の最中でも、生きいきと心中で輝きわたって、その仕事はいかなる仕事であろうと、世界人類を浄める意義ある仕事となってくるのであります。

世界人類のすべての心は、深い奥においては全く一つのものであります。しかしそれが想念として、現象の世界に働き出しますと、自己主義的相対的な波動となって、敵、味方となって争いの渦を巻き起こしてしまうのです。これは全く哀しむべきことなのです。

私たちはこうした相対的な想念の波を、世界平和の祈りという、絶対的な生命の本源からくる光のひびきに変えて、神の子である人類世界本然の姿、大調和、大平和の世界をこの地球界につくり出さねばなりません。

そのための働きとして我等の頭上に背後に救世の大光明のひびきが、輝きわたっているのであります。私はその大光明をこの世に光り輝かす一人の使者としてこの地球界に存在しているのであります。

どうぞ皆さん世界平和一念の姿で、この世の日常生活をお送り下さい。
(おわり)

五井昌久著『宗教問答 (続)』より