(つづき)別の例をとれば、人間は神の大生命から分かれた分生命である、だからみんな同じ立場で、同じように生きなければいけない、と思います。
自分の家はお金がある、隣の家はとても貧乏だ。食うのがヤットコサとすると、平等にしなければならないといって、半分ずつにして、貧乏の人と同じになって暮らすかといったって、そんなことは実際には出来ない。
自分に縁のある親戚でも、弟でも妹でも、持てるものは平均してやるのが神のみ心かも知れない。しかし実際問題として、同じように分けろといったって不可能でしょ。
夫が分けようとしても妻が「もったいない」、子供が「そんなこと」、と言って止めるに決まっている。
夫なら夫が悟って、みんなに分けてやろうと思っていても、妻が惜しがって止めることは必定です。
そうすると家庭に不和が起こって、神のみ心は調和であるのが、家庭内にイザコザが起こってしまう。そのように、この世の中では真理をそのまま実行することは出来ないのです。そのように出来ている。
”下着を取る者があったら、上着をも与えよ”、”右の頬を打つ者があったら、左の頬も出せ”、というイエスの教えがあります。それは無抵抗の教えで、真理の教えです。
しかし実際には出来ない。真理をそのまま実行することが出来ないと結局、みんな偽善者になってしまう。
表面的にはいかにもやっているような顔をして、「神さま有難う」とやっているけれど、実際の行ないとしてはやっていないわけです。だから精神的には常に、良心と現実が葛藤しているわけです。
だからいつまでたっても悟れるようにならない。生命が自由にならない。それではいけません。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より