(前略)倒(転倒)夢想、あるいは無明といいますが、仏教では、この人類が不幸になったのは、無明からだ、無明が始まりなんだ、というのです。
無明とは何かというと、明かりがない、闇という意味です。明かりがないから不幸になったというわけです。
その明かりはどこから来るかというと、神さまの中からくるわけです。
その無明を破る方法は何かというと、神さまの中に入る、大光明の中に入るより仕方がないわけです。
それを大光明の中に入らないで、三界(迷いの世界)の無明の中にいて、倒夢想した逆さの想いの中にいて、良いとか悪いとか言っている。
今までの修養とか宗教とかいうのは、みんな三界の中に入ったままなのです。「お前の心が悪いから」といえば、それは三界です。無明の中です。
「お前の心が悪いから、直さなきゃだめだ」、「お前が夫を拝まないからだめだ」、「夫を立てないからだめだ」と、「……だからだめだ」という叱り文句、小言、「こうしなければならない」というやり方、修養は、やらないよりはいいに決まっているけれど、逆の場合もずいぶんある。
それはあくまでも”倒夢想した人間を実在と見て”、「お前が悪いからこうしなきゃいけない」、「ぶつぶつ言うからおできが出来た」、「その家にいたくないから痔が悪くなった」ということになる。三界の迷いの中で教えているわけですが、迷いの中でいくら教えてもだめなのです。
迷いの中で心をよくしようと思ったってよくならないんです。
一段や二段は上ります。しかし、天上界までは上がれません。
なぜかというと、いつも業を追いかけ、業に追いかけられているからです。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より