スポンサーリンク

”在る”という当たり前の認識

(前略)人間というのは変なもので、「いけない」と言われると、余計そうしてしまうものです。

お菓子屋の子供は、お菓子は年中食べられるでしょ。だからお菓子を見たって、つまみ食いをしないですよ。もう年中食べられるから、おかしくって。(笑)

それと同じように、自分がいつでもいつでも充足していて、神さまのみ心がいっぱい入って充満してるんだ、自分は神の子なんだ、なくてならぬものは与えられるんだ、自分に必要なものは与えられるんだ、というように思ってると、ガッカリしなくてもいい。利益を求めなくても、ちゃんと自分に与えられるんだ、という心が宗教心なんです。

自分は神の子として、ここに生まれてるんだ、神のいのちとして、ここに存在してるんだから、自分になくてならないものは、必ず神さまが与えてくださるに決まっている、というふうに思ってると、あわてないですよ。騒ぎもしない。

努力は一生懸命します。私たちの仕事というのは、人に世界平和の祈りをすすめて、みんなが明るい、自由自在な人間になって、少しでも世界人類の平和のためになる人を創りたい、ということです。

そういう運動をやってるわけです。ですから建物のあるなしにかかわらず、本の出る出ないにかかわらず、一生懸命やっているわけです。

一生懸命やっていることがみんなの心を打って、道場の建物も大きくなるし、本もたくさん出てゆくようになるわけです。

自分に生かされているいのち、自分を生かしてるいのちに、利害関係ということはあまり考えないで、いのちが置かれた立場でそのまま、なんでもかんでも一生懸命することです。

これは当たり前で、簡単なことだけど真理です。一生懸命やってれば、やっぱりとらわれがないことになるんです。(後略)

五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より