(つづき)私のやっているのは、ご利益を与えることだけが本筋でなくて、本心の開発、自分の魂が本当に神様と一つになって、なんの不安もない、安心立命の生活がそこに築きあげられるような、そういう導き方をしているわけです。
それに付随してご利益がどんどん出てくる。自分の満足も出てくる。
想いの満足じゃないんですよ。
宗教的法悦というんでも間違えて、「自分の想いが満足したから有り難い、嬉しい」とやる。
想いの満足なんて業想念なんだ。
業想念で満足したり嬉しがったり、悲しがったりするのはダメなんです。
そういう業想念を超えたところに、本当の宗教があるんです。それを私が説いているわけですよ。
宗教というのは、どんなに悲しい想いや、辛い想いがあろうと、その想いのまま、ジーッと辛抱して祈りの中に入ってゆくんです。
入ってゆくに従って、ズーッと消えてゆくんです。それが宗教の生活なのです。
やはり自分の運命というものは自分が築くのだから、自分がしっかりしなければダメですね。
自分がしっかりして、神様の中へ入ってゆくのです。
世界平和の祈り一念で、何があろうと祈るんだ、どんな辛いことがあっても、なんでも祈り祈り祈りつづけなければダメですよ。
そうすると、パーッと開けます。
それ以外に救われる道は絶対にありません。
それで救われなかったらもういっぺん、やり直してくるより仕方がないですよね。(後略)
五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より