(つづき)それはなぜかというと、自分がどんな高い地位にいても、平気で貧しい人とでも話せるし、若い人とも話せるし、年寄りとも話せるし、誰とでもいつでも心が交換出来るような自由な心になることが、宗教の極意なんですよ。
どの世界に住んでも、例えば地獄に住もうと、霊界に住もうと、神界に住もうと、何処に住もうと自由で把われがないという心にならなければ、本当の解脱というわけにはいかないんです。
一つの固まった行をしなきゃ淋しいような、行をしていなきゃ自分が頼りないような、それじゃあ解脱していませんね。
何をしなくったって、どうしたって、自由自在ということにならなきゃいけないのだ、だけれども、そこへ行くのが大変だ。
そこで私は、あらゆる想い、「悟った」という想いも、「ダメだ」という想いも、「相手が悪い」という想いも、「自分が悪い」という想いも、「失敗した」という行ないも、”すべて消えてゆく姿なんだ”というのです。
この世に現われて、どんなに偉そうに見えたって、偉くなさそうに見えたって、そんなものはどっちにせよ消えてゆく姿。
在るものは何かというと、宇宙神の光が流れて来ている。
流れて、そのまま生かされている。
生かされていることと、生きているということがまったく一つになっている境遇、そういう境遇が一番尊い境遇だ。
だからその他のあらゆるものは、消えてゆく姿なんだということなんですね。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より