馬鹿な指導者というのは、真実のことを本当に言えばいいと思う。霊能でわかるからね。真実のことを本当に言って助かるもんじゃないです。嘘を言ったために助かることが随分ある。私などその名人だから……。(笑)
古くからの人は、「先生、昔の若い時はよかった」とよく言います。若い時はなんでもかんでも真実のことを言ったんです。ある日、悪い奴がいて困っている、というの。「ああ心配することはない。それは何年何月何日何時何分に汽車にひかれて死ぬから、そんなの放っておけばいい」そしたらその男は言ったとおりに汽車にひかれて死んじゃうの。それを聞いた人がびっくりして、「ああ、先生は恐ろしい、あんなに死ぬことが当たるんだから、いいことも当たるだろう」って(笑)、そういうこわもてで初めついていた。
それがだんだん利口になって、真実のことを言わなくなった。そうしたら、「先生、当たらない」当たらないんじゃない、当てないんだから。(笑)当てないために助かっている。当てたから助かるのか、当てないから助かるのか、これはわからないですね。
要するに宗教の道というものは、人を立派にすればいいわけです。立派ないい行いの出来る、勇気凛々とした人をつくればいいわけなのです。うまく導いていけばいい。
なんでもかんでも本当のことを言えばいいというもんじゃない。正直すぎて馬鹿がつく人がいる。会社勤めでも、馬鹿正直の人はあまり偉くならない。社長のやり方が悪いとする。「社長、あなたのやり方は悪いです。」と言えば、社長が悪くたって、社員に言われたんじゃシャクにさわるから、「なんだこのヤロー、あいつうるさいから……」、なんていうことになって飛ばされちゃう。
嘘をつけというんじゃないんですよ。人を生かすためには嘘も方便。自分の言い訳のために嘘いっちゃだめです。それは自分を傷つけるから。
いつでも根本は愛なんです。愛で導いてゆく、すべてを愛で導くのです。ところが宗教をやっている人は本当に正直なのです。正直で自分を縛っちゃうのですよ。
例えば、旦那さんが宗教をやってなくて、自分だけでやっている場合があるでしょ。正直に信仰しているといえば、旦那さんは寄越さないです。けれど言わなければなんだか気持が悪い、ということがあるでしょう。どうすればいいのかねぇ。言わなくたっていいじゃないですか。悪いことするんじゃないんだから。
何か買い物に行くついでにして、一寸足を伸ばして、親戚のところへ行って来ますって、道場にくればいい。そのうち、その人の行ないがだんだんよくなってくる。今まで夫にツンツンしていたのが、「みんないい人でみんあ過去世の因縁がぶつかって消えてゆく姿なんだ、ああ、うちの人の天命が完うしますように、みんなが仲良くなりますように、」とやっていますと、いつの間にか立派な明るい奥さんになる。
すると「うちのやつ随分変わったな、なんでこう変わったんだ。バカによくなったな、どうしたんだろう」と言ううちに、何か白光誌がチラチラ見えたり、本がチラチラ見えたり(笑)で本を見る。「なかなかいい本だ。いいことを言っている。この五井という人はいいな(笑)ちょっといってみるか」なんていうことになるんですよ。(笑)
五井昌久著『悠々とした生き方―青空のような心で生きる秘訣 聖ヶ丘講話』より